| トピックス 2007.5.30 |
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| 小説:企業年金制度「適年移行:激動の10日間」 |
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| 監査法人トーマツ 参与 山本 御稔 |
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※この小説は、フィクションであり、設定、登場人物、団体名等はすべて架空のものである旨、お断りしておきます。
【2006年早春:東京】
「いかがですか、ドゥトス様」
「私に異論があろうはずがないよ、シーゲル。もしも、この案件が本当に実現するというのならね。わが社のライバル、しかも最も強敵を買収できるなんて、まさに事実は小説よりも奇なりだな」
「この会社は技術は確かなのですが経営という点ではまだまだお粗末ですね。負債のマネジメントが…」
「確かに引当金がいやに多い」
「それは退職給付債務のせいなのです」
「しかし半端な金額じゃないぞ。いったい何が起きているんだ、この会社の内部では」
【2006年3月3日:パリ】
深夜2時に赤のロードスターはグランダルメ通りを西に向かって走っていた。このまま東方向に走ると凱旋門を抜けてシャンゼリゼ通りに入る。ロードスターは快調に走る。左側の黒く大きな影はブローニュの森だ。ロードスターはパリ国際センターに向かうために右折シグナルを出した。エンジンブレーキを利かせるためにドライバーはシフトダウンする。その瞬間だった。突如としてエンジンが回転数を上げ、タコメーターは軽々とレッドゾーンを振り切った。後輪が激しく回転しコントロールを失った赤い塊は対向車線を蛇行する。ドライバーの目に最期に映ったのは猛スピードで正面から迫りくるトレーラーのヘッドライトだった。
【2006年晩秋:プロローグは晩秋の琵琶湖】
「自動車のスピードメーターって不思議じゃないですか?」
蛍谷工業 琵琶湖工場 総務部の課長補佐の森本はハンドルを握りながら白川涼子に話しかけた。助手席の涼子は、京都駅まで迎えに来た森本のクルマに乗りこんでからほとんど口をきかずに物思いにふけっている。
「白川さん、聞いてます?」
少し大きくなった森本の声で涼子は我にかえった。
「あら、ごめんなさい。琵琶湖があまりにきれいで、海みたいに広くて、つい見とれちゃって」
「あはは、それならいいですけど。白川さん、さっきから元気がないですね。東京からの長旅で疲れましたか」
「ううん、新幹線は快適だったわよ。クルマに揺られて少し眠くなっただけ。気を使ってくれてありがとう。それよりさ、白川さんじゃなくて涼子でいいわよ。私も森本“君”って呼ぶから」
涼子は髪をかきあげながら礼を言った。髪の香りが車内の風にのって森本は一人でどぎまぎした。森本の所属する総務部には涼子のような若い女性はいないのだ。
涼子は蛍谷工業の東京本部で採用された。大学を出てすぐに大手の銀行に入ったのだが、日本社会のヒエラルキーに嫌気がさしてアメリカに留学したのだ。留学先のビジネススクールでヒューマンリソース、つまり人を資本と考える人事戦略の勉強をした。卒業が間近に迫った頃、帰国費用を稼ぐために、L.A.で見本市の通訳のアルバイトをしていた時に、蛍谷工業の社長の飯塚の目に留まり熱烈にスカウトされたのだ。
「涼子さん、スピードメーターって不思議でしょ?どうやってクルマのスピードを計っているとおもいます?」
「確かにそうね、タイヤの回転数からスピードを判定するのかしら」
「鋭いですね!スピードを導出する算式があるんです。タイヤの有効半径から導き出した円周に1時間当たりのエンジンの回転数をかけるのです。それをトランスミッションのギア比とディファレンシャルの減速比で割るとスピードが算出されるのですよ、ほら見ていてくださいよ」
森本はアクセルを踏み込んだ。スピードメーターがぐんとふれる。
「ほらね、即座にメーターが反応したでしょう。これってわが蛍谷工業の主力製品であるエンジン回転数の計測装置の性能が優れている証拠なのですよ。わが社の計測装置は世界中のクルマの30%に搭載されているのです。この優秀な蛍谷のエンジンモニターがあるから正確なスピードがわかり安全運転につながるのです」
森本のおしゃべりの間もクルマは進む。粟津と呼ばれるあたりにさしかかったところで渋滞が始まった。ここは近江八景の一つにかぞえられた粟津浜である。琵琶湖が瀬田川となって流れ出すあたりに近くなり対岸も見え始めている。粟津浜には江戸時代に多くの松が森のように生い茂り、晴れた日に風によって松の葉が擦れ合うことによっておきる音があたかも嵐のように聞こえるということで、晴れた日の嵐を意味する晴嵐(せいらん)という地名が残っている。
「また渋滞か。ここはいつも渋滞するのです。あと1キロほどで国道1号線に合流するのですが、そこの信号がおかしいのですよ」
森本がすまなそうな声を出す。
「いいのよ、森本君。こんなきれいな景色だもの、ゆっくり見ることができて幸せだわ。ところであのお城みたいなのは何?」
涼子は対岸に建つお城のような建物を指差した。森本は涼子の指差す方を見た。
「あれはホテルですよ。シャンドフルルンだったかな?」
「あはは、それを言うならシャンドフルールよ!お花畑っていう意味のフランス語だけど、フランスの大手のホテルチェーンだわ」
「そうですか、お花畑ねぇ。そうそう今日は11月1日ですね。ちょうど1年前にできたのですよ。去年の11月1日のオープン記念日に割引券があったので母を連れてコーヒーを飲みにいきましたが、豪華なロビーに圧倒されちゃって」
「あら、彼女と一緒じゃなかったの?親孝行なのね、森本君は」
「彼女なんていないですよ!」
森本はホテルを見ながら、少しむきになって言った。森本は視線を対岸のホテルから涼子の横顔に移した。あごから首にかけてのラインが逆光のなかに浮かんでいる。森本ははじめて女性の骨格が華奢なものだということに気がついた。
突然のクラクションが森本を現実に引き戻す。あわててアクセルを踏み込んで、はるかかなたに遠のいた渋滞の最後尾を追いかけた。
これから涼子が勤務することになる蛍谷工業の主力工場である琵琶湖工場はもう目の前だ。涼子は自分がこの工場で果たすことになる役割を思い、暗澹たる気持ちになった。明日からは本格稼動だ。
【2006年10月:決断】
涼子が琵琶湖工場に赴任する1カ月前のことである。蛍谷工業の社長である飯塚は意を決して電話を取り上げた。3回目の呼び出し音で相手が出た。
「お電話ありがとうございます。バンク・ル・ソレイユ日本支店でございます」
「こちらは蛍谷工業の飯塚だが、M&Aの件で話がある。支店長のシーゲル・ツォモリーノさんをお願いしたい」
「ツォモリーノでございますね、少々お待ちください」
内線がつながるまでの間、受話器からは雑音交じりの音楽が聞こえている。しばらくして飯塚の耳にフランス語なまりの日本語が飛び込んできた。
「飯塚さん!シーゲルです。お元気ですか」
飯塚は元来せっかちで、時候の挨拶を含め挨拶というものが苦手だ。早く本題に入りたい。
「ええ、元気ですよ。シーゲルさんもお元気そうですね」
「それが元気じゃないのです。昨日、六本木のオイスターバーに行ったのですが、オイスターにあたったらしくて、もう大変なのですよ。体中がかゆくなるし、気分は悪いし、せっかくのホワイトワインはおいしくないし、朝からトイレに入りっぱなしで」
「シーゲルさん」
飯塚は言葉をかぶせた。このまま饒舌なシーゲルにしゃべらせておいたらどれだけ時間がかかるかわからない。いや、それ以上に、狡猾な投資銀行家の戦略に乗せられてしまうことを飯塚は自然に警戒したのかもしれない。
「シーゲルさん、お申し出いただいたプロジェクトの件だがアマデウスなら合意しよう。いいか、アマデウスで定められた条件を確実に守ってもらうことが条件だ。いいですな」
飯塚は受話器に言葉を送り込むように丁寧に言い切った。3秒ほどの沈黙の後に素っ頓狂な声が返ってきた。
「本当ですか、飯塚さん。トレビヤンです。メルシーです。さすがに飯塚さんだ、すばらしい決断ですよ。一挙に気分が良くなりました。どうです、今晩にでもすばらしいレッドワインで今後の飯塚さんの成功を祝いませんか。いや、本当にすばらしい」
「シーゲルさん。私はとても祝うような気分ではない。いいか、しつこいがアマデウスの条件の履行が大前提だぞ」
飯塚はそう言って受話器をおいた。
【2006年4月27日:メキシコシティ】
ブエナビスタ駅の駐車場からセダンが走り出した。メキシコシティは空気が薄い。セダンはこの薄い空気のなかでも問題なく加速していった。クアウテモク像の真下で大きく左折してレフォルマ通りに入る。通りは歩行者やバイクでひしめきあっている。通りの左右にはテント張りのアーケードがあり野菜や果物が売られている。
セダンが60キロまで加速したときいきなりバイクが道を横断した。ドライバーはあわててブレーキを踏む。ブレーキングにより減速したという情報はトランスミッションに伝わり自動的にシフトダウンされる。次の瞬間、ドライバーがブレーキから足を離したときにエンジンが咆哮した。そのまま8,000回転までエンジンを吹き上がらせたセダンは数台のバイクを跳ね飛ばしランチタイムの買い物客でにぎわう商店街に突っ込んでいった。
【2006年10月:涼子の特命】
涼子はためらいがちに分厚い欅づくりのドアを押した。銀座のホテルにある会員専用のバーに呼び出されたのだ。
「飯塚様をお尋ねでいらっしゃいますか?」
品のいいウェイターが声をかけてきた。飯塚が待ち合わせであることを言い含めておいたのだろう。涼子はバーの奥に案内された。薄暗い店内はまだ客はまばらだ。午後の7時をまわったぐらいではバーの会員たちは銀座の街で食事の最中なのだろう。奥のカウンターに見慣れた背中が見える。
「やぁ、白川君。突然呼び出して申し訳ない」
飯塚は常日頃と変わらない大きな声だ。
「君は何を飲む?ビールでいいのかな、いや、最近の女性はワインかな、おなかが減っただろう。サンドイッチでもピザでもなんでも好きに食べなさい。私は体脂肪が警戒レベルを超えたから食べられないんだよ。スコッチをすこっちだけ飲むので十分。いや、わっはっは」
静かなバーに飯塚のだじゃれが響き渡る。涼子はひやひやして笑うどころではなかった。
ワインのボトルが半分くらいになったときに「実は」と切り出したのは飯塚である。ピクルスだけが残っていたサンドイッチの皿はウェイターがさげていった。
「実は、わが社は大きな岐路にさしかかっている。白川君がアメリカの大学院を卒業してわが社に入社してくれてからまだ5カ月しか経っていないが、君の才能を見込んでこの局面を打開したいと考えている」
飯塚は声を落としてしゃべり続けた。
「君はドゥトスって会社のことを聞いたことがあると思う」
「ドゥトスってフランスの自動車部品メーカーですね。エンジンやトランスミッションのモニタリングシステム分野では、わが社と同様の製品を作っているのですよね。でも…」
飯塚は涼子に話を進めるようにうながした。
「でも、ドゥトスはわが社より、ずいぶん、技術力が落ちると聞きましたけれど」
「その通りだよ。わが社の技術力はピカイチだよ。技術では、誰にも負けない。技術ではね」
「技術では」という部分に幾分の自嘲をこめて飯塚は言った。
「白川君、技術力だけでは勝てないんだよ。ドゥトスは技術は劣るのだけれど資本力で急激にシェアを伸ばしている。日本においても同様だ。来年の4月からは関が原自動車は全面的にドゥトスの採用を決めた。長久手自動車もドゥトスの採用を決めつつある」
「関が原と長久手がドゥトスを採用したら…」
「そうだよ、君の推測通り、わが社のシェアは限りなくゼロになる。海外部門の収益が維持されると仮定しても、このままでは業績見通しは従来の70%減だろう。この影響は大きいよ。投資家への説明、銀行との協議、失われたシェアの回復…重大な局面なんだ」
飯塚は2枚の名刺をテーブルに放り出した。1枚はバンク・ル・ソレイユの日本支店長シーゲル・ツォモリーノ、もう1枚は、ドゥトス・コーポレーションのアジア地区代表のサニー・ウエムラである。
「ウエムラっていうのは日系フランス人で日本語に堪能だ。ツォモリーノはフランス人だよ」
「もしかしてバンク・ル・ソレイユってM&Aで有名な投資銀行ですか」
「知っているかね」
飯塚は名刺をしまいながら話を続けた。
「私はね、ドゥトスと競合することをあきらめた。わが社が創業以来進化させ続けたモニタリングシステムの製造部門である琵琶湖工場はドゥトスに売却する。ただし、大事な従業員の雇用は確保する、絶対に確保する」
飯塚はグラスに口をつけ乾きを潤した。
「買収プロジェクトには3つのパターンがあるんだ。バッハ、ショパンそしてアマデウス…ふざけたプロジェクト名だよ。フランス風なのだろうが生真面目な日本人にはわからないところがある。それぞれに条件が違っているので買収価格に差がでるのだが…アマデウスというパターンは全従業員の新会社への転籍を前提としているんだ。琵琶湖工場には3,000人が働いているが、彼ら全員が転籍する。その後のわが社は、大幅に人員を絞り込んでR&Dに特化する。現在、開発中のハイブリッド車のエンジン・電気系統のモニタリングシステムの研究を加速させるんだ」
涼子は突然のことで話がうまく理解できないでいた。なぜ自分がこの話を聞かなければならないのか、自分は何をしなければならないのかがわからないのだ。涼子の心を見透かしたように飯塚が言った。
「そこで白川君の出番になるわけだ。琵琶湖工場に出向いてこの大転籍プロジェクトを成功させて欲しい」
「転籍って、つまるところ転職ですよね。雇用主がかわる、会社名がかわる。従業員には衝撃が走るはずです。いったい、いつ発表されますか」
「こればかりはわからない。正式にドゥトスと契約調印をする目処がたたないと発表はむずかしいよ」
「それまで…」
「そう。それまでは白川君にはむずかしい舵取りをしてもらわないといけないね。もっとも琵琶湖工場の組合員をまとめてくれている委員長の服部主任には報告済だ。彼とは同期入社で気心がしれているんだ。何かと力になってくれると信じている。転籍にあたって一番の問題は退職金だ。財務部の課長の田辺君が本件を財務面から支援してくれる。彼によれば適格退職年金制度の存続の検討と退職給付債務が問題らしい」
飯塚は会話の矛先を転じた。
「来月には琵琶湖工場に赴任して欲しい。なんとか3,000人をまとめてくれ。田辺君も頻繁に琵琶湖に出向いて君を支援する。白川君も心強いだろう」
飯塚は意味ありげに涼子の顔を見た。
「田辺君が行ったとしても仕事に集中してくれよ。あれ、頬が赤いぞ」
涼子と田辺のことを飯塚は知っているらしい。
「違いますよ、ちょっと酔っただけですよ」
【2006年6月15日:コロラド】
大型のクレーンで引き上げられたのはジープタイプのSUVだ。車体は原形をとどめていない。
シリンダーが飛び出すほどに大破したエンジンルームを覗き込んでいるのはコロラド警察の特殊捜査班だ。彼らはやがてコントロールパネルとトランスミッション横の小さな黒い箱を取り出して去って行った。
【2006年11月2日午後3時:組合委員長の要求】
琵琶湖工場は凱旋門形式と呼ばれる建物の配置になっている。工場の管理機能を集約する本部棟を中心として放射状に工場棟が6棟並んでいる姿が、パリの凱旋門を中心に放射状に市街地が伸びていく姿を彷彿とさせるためにこう呼ばれている。第5棟の管理主任の服部洋三は数冊のファイルを携えて本部棟に向かっていた。服部は組合の委員長として5期目に入っている。
「景気がこういう状況やからなぁ。うちの会社も今まで通りというわけにはいかんのやろうが、社長も思い切った行動に出たもんや。フランス人に琵琶湖工場を売却するやなんて創業した会長が許さはるのやろか」
服部は長々とつぶやき、時計を見た。会議までにあと7分ある。守衛室脇でタバコに火をつけた。
「社長は琵琶湖工場の従業員は新しい会社が全員引き取ってくれるから安心せぇって言うけど、安心できるわけないわな。副委員長の田中なんかは絶句しとったわ。組合をまとめるのも大変やしなぁ、辞めたろかな…いやいや子どもが独立するまでクビにはなれへんしなぁ」
服部は、タバコの火をもみ消すと、本部棟のガラス扉を押した。服部には2人の子どもがいる。2人とも地元では有名な進学校で大学進学を目指している。年子の姉弟の学費は服部の給料だけではむずかしい。妻は去年から老人介護のパートをしながら学費を貯め始めている。
会議室には、涼子と森本がすでにおり、扉をあけると、あわてて立ち上がった。
「服部さん、私、東京本部の人事部から異動してきた白川涼子です。本日はお忙しいところありがとうございます」
「服部です。ところで、私は第5棟の管理主任をしてますけど、今日は組合の委員長として呼ばれたことになってますのやな?」
服部は森本をじろりと見た。
「委員長として来てるからには一言、言わせてもらいまっせ」
服部はどすんと音をたてて腰掛けた。パイプ製の椅子がこわれそうだ。そして、いきなり厳しい口調で切り出した。
「組合員達は少々浮き足だっとるのですわ」
「浮き足立つ…どういうことでしょうか」
涼子はとまどいを隠せない。
「私らを甘くみたらあきまへんで。東京本部の財務の、ほれ、いつも派手なネクタイしてはる人…」
「田辺さんですか」
「そやそや、その田辺ちゅう人が頻繁に来てはいろいろな数字を調べはったり、今度は白川さんが転勤して来はったり。組合員はすぐにこういう動きに気がつきますわ。こら、なんかあるに違いないと…。私のところにも何人も聞きに来てまっせ。私はね、飯塚社長からある程度聞いてますさかいにええけど、何も知らん組合員は疑心暗鬼なんですわ。そやから浮き足だっとるのや」
「申し訳ありません」
涼子はともかく頭を下げた。
「服部委員長には大変なご苦労だと思います。状況をかいつまんでお話いたします。琵琶湖工場がフランスのドゥトス社によって買収される交渉が進んでいることはご存知の通りです。私は飯塚社長より特命を受けて、買収とその後に起きる琵琶湖工場の従業員の転籍についての人事関連問題に関わっています。中でも最も難題が退職金なのです」
服部は目を閉じたままだ。
ポイント1:退職給付引当金
・退職給付債務は従業員等の退職給付制度に関わる債務である
・退職給付債務は“債務”であるが、そのまま負債として貸借対照表に記載されるのではない
・退職給付債務から「資産と未認識数理計算上の差異等」を控除した額を退職給付引当金とする
・未認識数理計算上の差異“等”とは正確には、未認識数理計算上の差異(ポイント2参照)、未認識過去勤務債務、会計基準変更時差異である
・退職給付引当金は貸借対照表に記載される市況の影響を受けて年金資産価値は変動するが、その変動分は数理計算上の差異に組み込まれる
・蛍谷工業の場合の退職給付制度の状況は下図の通りである
年金資産
(38億円) |
退職給付債務
(60億円) |
未認識数理計算上の
差異等(2億円) |
退職給付引当金
(20億円) |
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ポイント2:未認識数理計算上の差異
・数理計算は退職給付制度の債務や年金制度の掛金率の算出時に行う計算である
・数理計算では「退職率」「昇給率」「死亡率」といった計算の前提を設定する
・これらの基礎率(予定)と実績には差が生じる
・この差異、すなわち“見込み違い”をすぐに年金制度運営に反映させる(=即時認識)のも、一つの考え方である
・しかし、翌年、前年の差異を打ち消す方向で差異が生じることもある
・退職給付制度は長期的な制度なので、このような基礎率に関係する予定と実績の差は即時認識して“右往左往”するのではなく、発生後一定期間にわたって遅延認識をして処理するという考え方をとっている
・ちなみに処理、つまり償却期間は従業員の平均残存勤務年数が使用されることが一般的である |
ポイント3:外部積立
・外部積立とは文字通り「会社の外部」に積み立てることである。具体的には、例えば信託銀行に掛金を拠出し、そこで保管・運用がなされることを言う
・外部に積み立てられた掛金は、原則として従業員のものであり会社に返還されることはない
・信託銀行は分別管理を信託法に則って行うので、仮に会社が倒産しても、あるいは保管銀行としての信託銀行が倒産しても外部積立の資産は保全される
・退職一時金等の内部引当は会社の倒産時等、資産が保全されない可能性がある。この点で外部積立が安心だと言われることがある
・外部積立は、適年、厚生年金基金、確定給付企業年金、確定拠出年金等の制度で利用されている |
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「琵琶湖工場の従業員に関わる退職給付債務はざっと見積もって約60億円です。一方、年金資産が38億円、未認識数理計算上の差異が2億円ありますので、貸借対照表における引当金は(ポイント1参照)」
「白川さん」
服部が話をさえぎった。
「私らむずかしいことはわからんのですわ。理屈はしゃべってもらわんでもええんです。さっきアンタは『交渉が進んでいる』って言わはったけど、ドゥトスがこの琵琶湖工場を買うっちゅうことは、もう決まったも同然ですやろ」
服部の言葉には、自分達の意思とは関わりなく物事が動いていくこと、自分たちはそれに従うしかないことへの憤りが感じられた。
涼子は、服部の憤りの強さを感じ、この話し合いが不調に終わることを覚悟した。服部と決裂してしまっては組合を、そして従業員をまとめることがむずかしくなってしまう。ところが意外な言葉が服部から飛び出した。
「私ら、所詮はサラリーマンや。白川さん、会社の方針通りに組合はまとめますわ。ただしや、今の退職金制度を“そのまま”新しい会社に持っていって欲しいのですわ。“そのまま”や。それなら組合員は安心して新しい会社で働き続けることができますわ」「“そのまま”ですか…」
「そや、“そのまま”や…たのんまっせ。来週の月曜日の午後に組合の執行委員会がありますのや。そこで話しますよってに、月曜日の午前中には具体的な案を示して欲しいんですわ。言うこと言うたし、聞くこと聞いたし、ほな、これで帰らせてもらいます。そろそろニコチンが切れてきたさかいな。最近は職場も家庭も禁煙の嵐や。タバコ呑みには試練の世の中ですわ」
【2006年11月2日午後10時:退職金規程は退職給付の憲法】
午後10時になると琵琶湖工場の本部棟は消灯されてしまう。
「涼子さん、そろそろ10時ですよ。もう帰りましょう」
つきあい残業をしてくれた森本にせっつかれて涼子はようやく腰をあげた。
森本はすることがなくなって、部屋の片隅の小さなブラウン管テレビでニュースを見て待っていたのだ。ニュースキャスターがアメリカのANBN放送の株主交代のニュースを告げている。
「アメリカみたいな資本主義至上だと会社も大変ね」
涼子は片付けながらつぶやいた。机上には涼子の書きかけのメモがあり、こう記されている。
1.退職金規程で退職給付は決定される
2.外部積立(ポイント3参照)の適格退職年金制度(以下、適年)を利用している
3.適年は定年時の100%移行である
本部棟の扉の鍵をかけている森本に涼子は声をかけた。
「森本君、退職金規程っていうのは退職給付の支払い方とか退職金の算定方式とかを決定する憲法のようなものよね?」
「憲法ですか…例えがおもしろいですね。その通りですよ」
「なるほど。次の質問なんだけど、当社が適年を使っている理由は、外部積立にあると考えていいのかしら。信託銀行とか生命保険会社のような“外部”の受託機関に掛金を出すことで、資産が保全されるってことよね」
「そうですね、たとえ、この蛍谷工業が倒産しても外部に積み立てられている資産は、蛍谷工業の債権者の手の届かないところにありますから従業員にとっては安全なんです。ウチを担当している信託銀行の担当者が『資産は信託法上、分別管理されていますから安心です』って自慢するんですけど、そのことだと思いますよ」
「じゃ、次の質問ね」
「その前にね、適年で外部積立すると掛金が全額損金になるっていうメリットもあるんですよ。例えば、外部積立せずに内部で引き当てる場合には、引き当て時には税のメリットはないですよね」
「そういうわけなのね。だんだんわかってきたわ。それでね、『定年時の100%移行』って何なの?」
「ああ、それは定年で辞めた人には適年という財布から退職金や年金を支払うけれども、定年に至らずに途中で辞めた人に対する退職金は適年という財布からではなく、会社が一時金として払うという方法なのですよ」
「え?なんだか変な感じね」
「そうですね、昔に設立された適年にこういうのがあるのです。“縦割り移行”って呼んだりもしますよ。最近の適年は“横割り移行”って言って、定年とかには関係なく辞める際には適年から退職金を出し、それで足りない分は退職一時金として支払うというやり方が多いですね。昔は退職金制度にも税制メリットがあったのでこういう形態もアリだったのでしょうね」
「今日ね、服部さんが“そのまま”ってこだわっていたでしょ。要は、今の適年をドゥトスになってからも続ければいいってことよね」
「そうですね、適年ってあまり規制が強くないって聞いてますし、できるんじゃないですかね」
「ちょっと、うれしいかも!これなら、服部委員長の要求の“そのまま”を実現できそうでんな」
涼子は慣れない関西の言葉でおどけてみた。工場の通用門を出ると晩秋の空気が涼子を包む。「クルマで送りますよ」という森本の誘いを断って歩いて帰ることにした。森本の残念そうな表情がちょっとかわいそうで、ちょっとかわいい。
涼子は携帯電話を取り出した。メールは来ていない。最近は田辺からのメールがめっきりと減ってしまっている。財務を取り仕切る立場だからバンク・ル・ソレイユとの丁々発止で忙しいのだろう。
涼子が昨日送ったメールは読んだのだろうか。明日は文化の日で休日だ。田辺が琵琶湖工場に来ているのなら一緒に観光をしようと提案したのだが、残念ながら1人で週末を含めた3連休を迎えることになりそうだ。
工場のすぐ目の前は瀬田川である。川幅100メートルほどでゆったりとした流れを見せている。瀬田川は京都に入ると宇治川と呼ばれ、それがやがて淀川となり大阪湾に流れ込む。宇治は、涼子には縁深い所だ。伯父にあたる佐渡島が住んでいる。涼子は琵琶湖工場の赴任前に手紙を出しておいたのだ。
「明日は佐渡島おじさんの家にお邪魔しちゃおうかな。おじさんって年金コンサルタントだったって話だから企業年金とか詳しいかも。宇治ならここから1時間もかからないし」
【2006年7月19日:ワシントンDC】
ワシントンDCのダウンタウンの南の外れに体育館のような建物がある。FBIの模擬訓練が行われる場所だ。実弾射撃の訓練も当然のように行われるため、天井や床を含め堅牢な造りの壁で覆われ、かつ完全防音である。
ガラス張りの部屋の内側にFBIの高官が数人着座し、彼らに対して実験の担当官が説明を加えている。ガラスの向こう側の訓練場には本日の実験の主役である1台のクーペが停車している。担当官は説明を終えると、遠隔システムを利用してクーペを発進させた。訓練場を数周した後、いよいよ実験が開始される。担当官はクーペのスピードを上昇させた。部屋に備え付けられたモニター画面が60マイルを表示したことを見届けて、急激にシフトダウンする。スピードがぐんと落ちる。その直後、クーペは別の意思が宿ったかのごとくに狂い始めた。実験室内のモニター画面上の各種の表示がめまぐるしく動き始める。エンジンルームへのガソリン供給が異常なレベルに跳ね上がり、回転数は表示不能領域まで上昇した。ガラスの向こうにはコントロールを失ったクーペが猛烈なスピードで壁に激突する姿が見えている。
「原因は断定されたと考えてよろしいでしょう」
担当官は高官たちに向き直るとこう告げた。
【2006年11月3日:適年を引き継ぐ?】
佐渡島は涼子を温かく出迎えてくれた。
「涼子ちゃん、ずいぶん大人びたねぇ。すっかりきれいになってどこかのモデルさんかと思ったよ」
「おじさんは変わらないわね。口がうまいのも昔のまま」
「宇治はいいところだぞ。自然が豊かなうえに、多くの文化と伝統があるんだ。源氏物語の最後の十帖は宇治十帖と呼ばれて、ここ宇治が舞台なんだよ。宇治川では鵜飼いをやっているし、平等院はすぐ近くにあるし…平等院は今から千年近く前の1052年に、時の関白藤原頼道が父親である藤原道長の別荘を…あれ、藤原頼長だったかな…最近、物覚えが悪くてね。それでね、頼道は宇治に来たついでにちょっと寄り道してね…」
佐渡島の講釈は終わらない。とうとう佐渡島の妻が口をはさんだ。
「あなた、涼子ちゃんは相談事があっておみえなのじゃないの。くだらない講釈は迷惑よ」
「あら、おばさん、そんなことないのよ。すごく楽しいわ。でも、もしおじさんがご存知だったら教えて欲しいことはいくつかあるの」
「涼子ちゃんのためなら何でも教えてあげるよ。金の貯め方以外ならね」
「あはは、お金の貯め方じゃないけど、でも似てるかもしれないわ。実は退職給付制度について知りたいの。確かおじさんは保険会社にいて…」
「卓球!じゃなかった、ピンポーン!涼子ちゃんはいいおじさんを持ったねぇ!おじさんは退職給付制度のプロなんだよ。若い頃は保険会社で企業年金の仕事をしていたし、その後は監査法人トーマツに移って年金コンサルティングの仕事を長くやっていたんだよ。何でも知ってるよ…というわけにはいかないけど、できるだけ涼子ちゃんの力になってあげるよ。今日は親族優遇で特別にただでコンサルティングしてあげよう」
涼子はこれまでの経緯や昨日のミーティングのことを手短にまとめた後でこう続けた。
ポイント4:内枠と外枠
・退職金規程で支払われる金額が“総枠”である
・総枠の内の一部を適年や確定給付企業年金などの制度で支払う場合、この制度は“内枠”と呼ばれる
・退職金規程とは関係なく、別の退職給付制度が準備されている場合、この制度は“外枠”と呼ばれる |
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「それでね、退職金制度はすべて内枠として適年でまかなわれているみたいだし、その適年を新会社で引き継げばいいかなって。そうしたら、今までの琵琶湖工場の退職給付制度が、琵琶湖工場が外資の会社に買収されてからも、新会社に引き継がれるじゃない。意外に簡単かもって思っているの」(ポイント4参照)
聞き終わると佐渡島はソファーにひっくり返って笑い始めた。
「涼子ちゃん、それは無理だよ。退職給付制度ってそんなに簡単なものじゃないから、おじさんは年金コンサルタントとして仕事をもらえていたんだよ」
「え、できないの?なんとかなるでしょ?」
「だめだめ、それは無理だよ。適年を引き継ぐことはできないよ」
「ちょっと、おじさん、それ本当なの?!あたしにとっては重大事なのよ。笑ってないで、ちゃんと教えて」
涼子の剣幕に、真剣さを読み取ったのだろう。
佐渡島は座りなおして腕を組んだ。
「いいかい涼子ちゃん、適年というのは一つの法人が単独で実施するケースが多いんだ。でも、複数の法人が共同で実施することもできるんだよ。この場合は“結合契約”って呼ばれるんだ。結合契約があれば異なる法人間でも行き来できるよ。法人間で転籍しても適年を持っていけるってことだね」
「えぇっ!その結合契約っていうのがないとダメなの?」
「ただね、結合契約がなくても、行き来しようと思えばできないわけではないんだよ」
「言っていることがよくわからないわ。この会社の場合はどうなのかしら」
「転職した先に適年があれば都合よく運ぶのだけれど。でもその会社はまだできたばっかりだろ。間違いなく適年は用意されていないよ」
「うん、日本に来て1年経ってないわ。そもそも、支店長を含めても5〜6人の会社だから」
「退職給付制度すら整ってないかもしれないね」
「と、いうことはダメってこと?」
佐渡島はうなずいた。
【2006年11月4日夕方:涼子の部屋】
昨日は最悪だった。田辺とのデートができないだけでも涼子には痛手なのに、その痛手を癒してもらおうと訪ねた佐渡島からは、適年の移行についての涼子案を完全に否定されたのだ。
気がつけば外は真っ暗だ。朝から部屋にこもりっきりでろくに食べていない。だが晩御飯をとる気にもならない。ベッドに寝転がったまま止められずに続けている携帯電話のブロック崩しゲームは最終画面になっている。ブロックが最後の二つになった瞬間、携帯電話がいきなり鳴り出してメールの受信を知らせた。
「あー、びっくりした!心臓に悪いよ」
“涼子さん、明日、蛍谷工業の野球チームの応援に来ませんか?僕も出ます^-^v 森本”
メールを見た涼子は思わずベッドからずり落ちた。
「へーえ、森本君って野球やるんだ!もやしっ子かと思っていたけど案外やるね!行く行く!おもしろそう!」
【2006年8月11日:モスクワ】
司法情報科学局の24階の局長室で会議が行われている。最近、世界各地で起きている原因不明の自動車事故についての調査結果が回される。ロシア国内でも30件近くの事故が原因不明とされているのだ。交通省だけでなく経済省の傘下の外貨促進センターからも数名が参加している。
2時間ほどで会議は終了した。参加者達の資料の持ち出しは禁止されている。出口で資料をシュレッダーに挿入しないと扉は開かない。書類は全て細断されていく。書類に散見されるドゥトスという文字もあっという間に細切れにされていった。
参加者のうちの一人はフランス語を話していた。会議終了後に彼が乗り込んだクルマはビルの地下の駐車場からすべり出るとそのままフランス大使館に向かっていった。
【2006年11月5日早朝:日曜日の打開策】
森本が涼子を迎えに来たのは日曜日の早朝だ。この季節、朝の6時はまだ暗い。少し息が白くなるほどの冷気も感じられる。涼子は重そうなビニール袋を森本に見せながら助手席に乗り込んだ。みんなの朝ごはんにと近くのコンビニでおにぎりを買い占めてきたのだ。
「涼子さんはやさしいなぁ。みんな喜びますよ。今日は来てもらえるとは思わなかったです」
「あたし、実は野球って大好きなの。父が熱烈な高校野球ファンだったからよく野球場まで連れて行かれたのよ」
「へーえ、深窓の令嬢のように見えますけど」
「あはは、お世辞言ってもだめよ。それに昨日、メールくれたときは最悪だったから、気分転換にちょうどよかったのよ」
「最悪だったってどうかしたんですか?」
「例の退職金の話よ。今はやめましょ。森本君には月曜日に話すわよ。せっかくの野球が台無しになっちゃうから」
「そこまで聞いちゃうと気になるじゃないですか。話してくださいよ」
「そっか。そりゃそうね。じゃ話すわ。でも野球はがんばってね。あのね、佐渡島おじさんって呼んでるおじさんがいるの。母のお兄さんなんだけど、監査法人トーマツで年金のコンサルタントをやっていたのよ。年金のことよく知ってるの」
「監査法人で年金ですか?」
「そうよ、監査法人トーマツには年金アクチュアリー、証券アナリスト、米国の公認会計士、DCプランナーがいる年金コンサルティングのグループがあるの。会計士が特に年金のスペシャリティを高めるために作った年金会計サービスライングループというのもあって、退職給付制度関連のコンサルティングでは日本でも最大級なのよ」
「すごい!監査法人トーマツってすごいですね」
「そうよ、森本君!監査法人トーマツのサービスはここにアクセスすればわかるのよ!」
「よし、さっそくアクセスしてみよう!」
「…………」
「…………」
「森本君っ!」
「はいっ!」
「あたしたち、ちょっとコマーシャルし過ぎたかしら」
「そうですね、小説に戻りましょう。ちょうど球場に着いたし」
森本は河川敷の草野球場の駐車場にクルマをとめた。もう何人かがキャッチボールをしたり、“とんぼ”でグラウンドをならしたりしている。
「それでね、年金に詳しい佐渡島おじさんによるとね、適年はドゥトスが作る新会社には引き継げないのよ。だから服部委員長の言う“そのまま”はできないの」
涼子は佐渡島との会話の要点を話した。森本の表情がどんどん暗くなっていく。
「涼子さん、適年のうち琵琶湖工場という事業所に関わる適年だけを分割することはできるんですよね。そうすると琵琶湖工場のいわば“単独”の適年になりますよね。その上で、ドゥトスが琵琶湖工場を買収するってことは、単に琵琶湖工場の持ち主が蛍谷工業からドゥトスに変わっただけだからその適年は存続してもよさそうなものじゃないですか」
「そうなんだけど、買収後の事業主がドゥトスに変更になるからダメなのよ。そういうルールなんだって」
「えー、じゃ、服部さんの意向通りにならないのですね。厳しいなぁ…組合をまとめきれるかなぁ」
「ごめんね、やっぱり言わなきゃよかったね。さ!野球がんばって!森本君のポジションはどこなの?」
「あ、ぼくは補欠なんです、面目ないです」
試合はなかなか拮抗している。相手チームも蛍谷工業も高校野球の出身者が多いのだ。5回の裏である。蛍谷工業の攻撃だ。3塁横のコーチャーズボックスで突っ立っていた森本が急にベンチまで走って来て涼子の横に座った。
「あ、あ、あの、涼子さん!いい方法を思いついたんですよ。佐渡島おじさんは『なにもないところには適年を引き継げないけど、新会社に適年があれば、そこに引き継げる可能性はある』っておっしゃったんですよね。で、で、であればドゥトスに適年を作ってもらえばいいじゃないですか。あらかじめドゥトスの適年を始めておいて、買収が完了したらそこに琵琶湖工場の従業員3,000人が移ればいいのですよ!ドゥトスにはまだほんの数人の従業員しかいませんから適年を作るのも簡単でしょうし。これで問題は解決です!」
「え、すごいじゃん!それは考えなかったわ。ドゥトスの人たちも年金制度は必要だしね。頼めばきっと作ってくれるわよ!野球はダメだけど頭いいじゃん!」
「涼子さん…ちょっと頭にくるけど…でもうれしいっすよ!!」
【2006年9月30日:ポート・ドュ・ベルサイユ】
パリ15区のポート・ドュ・ベルサイユでパリモーターショーが開幕した。華やかな表舞台とは異なり、ショーはEUという巨大市場に群がる自動車関係者達の暗躍の場でもある。例年ならここに大挙して押しかけてくるはずのドゥトスの担当者は今年はまばらだった。予定されていた新システムの展示がないだけでなく、現行モデルの展示すら直前で中止となったのだ。
【2006年11月5日午前:適年の特殊事情】
涼子はグラウンドから少し離れて携帯電話を取り出した。電話をとりあげた佐渡島はまだ眠そうだ。
「おじさん、ごめんね、まだ9時になってないのね。あのね、昨日の適年の件なんだけど」
「はいはい。涼子ちゃんも大変そうだね。今は家にいるの?」
「今は近くの野球場なんだけど、そんなことはどうでもいいの。あのね、昨日、おじさんは適年から適年であれば異なる会社でも大丈夫って言ってたでしょ」
「あぁ、双方の企業が同意すればね。だけど、その外資の会社には適年がないんだろ」
「そうよ、ないの。でもないのなら作ってもらえばいいよね。適年を新たに作ってもらうのよ。蛍谷工業とは別に敵対的な関係ではないから両社が合意するなんて簡単だわ」
「こんなことを言うのはつらいけど、それもダメなんだよ」
涼子はジェットコースターに乗っているような気分になってきた。気分が昂揚したり落ち込んだりの連続だ。
「おじさん、どうしてダメなの?」
「えーっとね、今から4年前になるかな。2002年に確定給付企業年金法っていう法律ができたんだよ」
「ね、おじさん、時間がないわ。歴史の話をしている場合じゃないのよ。どうしてダメなのか早く教えてくれない」
「涼子ちゃん、気持ちはわかるけど、まずは理由を聞いてくれるかな。遠回りのようで近道だから」
涼子はその場にしゃがみこんだ。森本が3塁横でベースコーチをしながら心配そうに見ている。
「おじさん、ごめん。話してくれる」
ポイント5:適年の2012年問題
・2002年に確定給付企業年金法が施行された
・同法の施行により、以降、適年を新設することは原則としてできなくなった
・現行の適年は2012年3月31日をもって、税のメリットが廃止されるため、別の制度に移行することが必要となる |
|
「2002年に確定給付企業年金法っていう法律ができたんだよ。これまでの法人税法でカバーされている適年を改めて、確定給付企業年金法という法律でカバーしようという動きなんだね。この法律が施行されてから10年間の間に適年は別の制度に移行するような措置がとられているんだ。つまり2012年の3月末(ポイント5参照)をもって適年はこの世から消えてなくなるんだよ」
「じゃ、今作ったとしても2012年までに別の制度にすればいいんでしょ。まだ6年あるわ」
「いやいや、2002年の確定給付企業年金法の施行と同時に、適年の新規設立は禁止されたんだよ。その会社が適年を作ることはもはや不可能なんだよ」
「おじさん、ありがとう。この案もダメってことね」
いつの間にか、森本が横に来て心配そうに涼子をのぞきこんでいた。6回の表の守りに入っていて森本は仕事がないのだろう。涼子は森本に向かって手で×印を作った。森本が「なぜ」といぶかしげだ。
「涼子ちゃん!残念でしょ」
「残念よ。だってこのままじゃプロジェクトが前に進まないんだもの」
「おじさんはちゃんとプレゼントを用意しているよ。いい方法があるんだ」
ポイント6:適年の可能移行先
・適年→確定給付企業年金
・適年→厚生年金基金
・適年→確定拠出年金
・適年→中小企業退職金共済
上記のパターンの場合、適年で保有している資産や加入期間を持ち込むことができる |
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佐渡島の案は以下の通りである。適年の新設は認められないのであきらめるしかない。しかし、確定給付企業年金をドゥトスが新設して、そこに適年を移行することは法律で認められているという。ドゥトスが作った確定給付企業年金に、琵琶湖工場の3,000人が、適年で持っている権利も資産もすべてを確定給付企業年金に持ち込むことができるのである。ただし、確定給付企業年金では“縦割り”制度、つまり定年時移行という選択肢は認められないため厳密には“そのまま”の移行ではない(ポイント6参照)。
「おじさんって本当に意地悪だわ。もう、どうなるかと思ったじゃないの。ほっとしたわ。ありがとう」
涼子は安堵の表情で電話を切った。森本が心配そうにしている。
「森本君、何やってるのよ!こっちは大丈夫だからしっかりとコーチしてらっしゃい!」
【2006年10月8日:モー】
パリから北東へ約50キロ、クルマならハイウェイで1時間もかからないうちにモーに到着する。ルイ16世がこよなく愛したブリー・ド・モーというチーズで有名な田舎町である。
「大臣、日曜日なのに申し訳ございません」
「どういうことだ、こんなところにまで私を来させて」
「先月、お願いした件なのですが」
「手は講じてある。国家産業省としても看過できない問題なのだ。特に…」
「特に?」
「いや、もういい。こんなところを新聞記者にすっぱ抜かれたらどうする。いいか、各国の政府には私が手をまわす。君はマスコミを抑えろ。いいな、失敗したら…」
大臣と呼ばれた男はゆっくりと言った。
「失敗したら君の名は殺人者として新聞に載ることになる」
【2006年11月6日午前:勝負開始の月曜日】
ポイント7:適年と確定給付企業年金(DB)との違い
・適年は法人税法により実施
・DBは確定給付企業年金法により実施
・DBにおいては適年にはない下記のような要件が存在する
― 加入者の範囲(例:勤続5年以上の者は加入者とする必要がある)
― 給付設計(例:加入20年以上の者には老齢給付を与える、加入3年以上の者には脱退一時金を与える、年金の支給期間は5年以上とする)
― 受給権の保護(例:財政再計算に加え、継続基準・非継続基準による財政検証を毎年行う等)
(注)上記はあくまでも一例である |
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「よっしゃ、よっしゃ。要するにこういうことでんな。うちの組合員に適用されている適年という制度は、ドゥトスになったあとは確定給付企業年金という名前に変わるけど、今までの適年と変わらん。別の言い方をしたら年金制度の名前だけが変わると。これも偉い人が確定給付なんたら法っちゅうのを作らはったからやと。ほな、この案で今日の午後に執行部と協議してきますわ」
「基本的に適年となんら変わりません(ポイント7参照)。今後、入社してくる人たちには、加入期間20年以上で必ず年金給付を与えなければならないとか脱退一時金は加入期間3年以上で必ず与えるとか、これまでの適年にはなかったルールが適用され…」
「白川はん、あんた、また、きれいな顔してそういうむずかしいことを言い出さはる。要は今の組合員にとっては何にも変わらんっちゅうことですな」
服部の困った顔がおもしろくて、涼子は笑いをこらえながらもしっかりとうなずいた。
服部とのミーティングの後、雑用を済ませ涼子が席に戻ったときには午後2時をまわっていた。PC横の電話メモには、田辺の携帯電話に“至急”折り返すようにというメッセージが残っている。涼子はうれしさと緊張とを半々にして携帯電話を手にすると本部棟の外に出た。急いで電話をかける。呼び出し音が鳴っている。田辺の携帯電話からは涼子からの電話であることを知らせる専用の着メロが流れているはずである。
「田辺です。あ、白川さんですね。ちょっと待ってください」
“涼子ちゃん”ではなく“白川さん”と呼んだということは周囲に会社の人間がいるということだ。涼子は少しがっかりした。10秒ほどして田辺の声が飛び込んできた。
「あー、涼子ちゃん、ごめん」
「どうして連絡くれなかったの?昨日とか一緒にいたかったのにぃ」
田辺は涼子の甘え声を無視した。
「大変なんだ。今、新幹線で名古屋を過ぎたところなんだけど、あと30分ほどで京都に着く。京都駅からはクルマで1時間もかからないうちにそっちに行くよ」
「ほんと!うれしいわ」
「違うよ。仕事だよ。飯塚社長も一緒だよ。それだけじゃない。ドゥトスご一行様も一緒だ。ウエムラ在日代表もいるよ。休憩ができる応接室と会議室を2部屋ほど押さえて欲しいんだ。それから今夜の食事の手配だ。仕出しの弁当でいいから人数分お願いしたい」
「なんだ、久しぶりにディナーできるかと思ったのに。ねぇ、明日はどうかしら。柳が崎っていうところのマリーナのフレンチはどう?琵琶湖がきれいに見えるみたいよ。明日がだめならあさってでも、あ、金曜日なら大丈夫よね、金曜日にしましょうよ、久しぶりにゆっくり…」
「いったいなに考えてるんだ、遊びに行くんじゃないんだぞ。状況をわきまえろよ」
田辺は言葉を吐き捨てるが早いか一方的に電話を切ってしまった。とげのある言葉の冷たさが涼子の心に突き刺さる。
席に戻ると森本が声をかけてきた。
「涼子さん、グッドニュースですよ。さっき、服部さんが来て、執行部でもOKということでまとまったそうです」
「そう。よかったわ」
「あれ、涼子さん、うれしくないんですか。こんなに短い時間で組合の執行部からOKが出ることってめったにない快挙ですよ。ぼくたちの原案がよかったってことですよ」
「森本君、状況をわきまえなさいよ」
森本は思わず顔をしかめた。涼子は自分の口から出た冷たい言葉、しかも田辺の言葉の受け売りをした自分に驚いていた。
「ごめんなさい、言い過ぎたわ。ちょっといろんなことが重なって。ほんとにごめんね。森本君は悪くないのよ」
「はぁ、別に…」
「あのね、もうすぐドゥトスのウエムラさんが社長と一緒にここに来るの」
「え、マジっすか。そんなこと聞いてないですよ。何か緊急事態でもあったのですか」
「わからないわ。ともかく、応接室と会議室を用意しなきゃ。多分、フランスの人たちは日本茶はダメだろうから、ミネラルウォーターを用意しなきゃね」
【2006年11月6日夕刻:ドゥトスとの交渉開始】
午後4時をまわった頃、琵琶湖工場の正門に3台のクルマが到着した。涼子と森本があわててクルマに走り寄る。先頭のクルマから飯塚が降りてきた。いつも通りの快活さだ。
「やぁ、白川君、ご苦労様。急なことで申し訳ない。森本君もご苦労様。応接室は用意してあるかな。30分ほどしたら、そうだな、4時30分になったら私たちは会議室に移動するから会議の準備をしておいて欲しい。退職金制度について報告して欲しいのだ」
てきぱきと指示を出すと、飯塚はドゥトス社の一行を応接室に案内し始めた。涼子はその中に田辺の姿を見付けたが、同行してきたスタッフと話をしているらしく、とうとう田辺は前を向いたきりだった。
午後4時30分ちょうどに会議が始まった。ドゥトス社側の参加者はサニー・ウエムラ、顧問弁護士のヤン・シバビッチそして、オブザーバーとして参加しているバンク・ル・ソレイユのツォモリーノだ。彼は買収のコーディネーターとも言えるファイナンシャル・アドバイザーである。
「それではご報告いたします」
涼子が飯塚に促されて報告を始めた。会議には外国人も多く緊張せざるを得ない。ただ、皆、日本語ができるので、この点だけは涼子は気が楽だった。
「皆様、日本語が堪能でいらっしゃいますので日本語で進行させていただきます」
涼子は琵琶湖工場の退職給付制度が退職金規程に定められていること、定年時に100%移行の適年があることなどの諸条件について話した。ひとしきり話したところで飯塚が割って入る。
「いかがでしょう、ウエムラさん、ご質問はありませんか」
ウエムラは50代前半であろうか、ハーフではあるが見た目は日本人と変わらない。日焼けした浅黒い肌、鋭い眼光である。フランス人らしくベージュのスーツにはおしゃれなピンク色のポケットチーフがのぞいている。
「定年時の100%移行ということは、定年前の中途退職の場合には適年に外部積立をした資産を払い出すことはできないということですね」
涼子はウエムラの想像以上の理解の早さ、問題点の発見の早さに舌を巻いた。この会議を乗り切るのは容易ではないことを覚悟せざるを得ない瞬間だった。ウエムラは座ったまま話を続ける。
「定年前の人たちが大量に退職したら、例えば、団塊の世代の人たちが今回の買収を嫌がって大量に退職したら、適年の資産ではなく会社がキャッシュの手当てをしなければいけないわけですね。だとすると、財務的には極めて不安定だと言わざるを得ない」
会議室に緊張が走る。
「ところで、適年の状態はどうなのかな。責任なんとか金とか資産とか…」
飯塚が田辺に目を向ける。田辺はそれを受けて話し始めた。
「はい、適年が本来持つべき金額である責任準備金は約60億円、これは会計上の退職給付債務にほぼ一致しています。これに対して、年金資産は本年の3月末時点において約38億円あります。したがって不足金は22億円程度になります」
ウエムラが手先でもてあそんでいたボールペンを机上に放り投げた。乾いた音が会議室に響く。シバビッチとツォモリーノはニヤニヤしている。
「では、白川君、続けなさい」
「次に組合との協議についてご報告いたします。組合側の条件はこれまでの適年を“そのまま”新会社が引き継ぐことです。これについては私と森本とで協議をいたしました。結論から申し上げますと、適年を引き継ぐことは可能です。ただし新会社にて、その受け皿となる確定給付企業年金という制度を創設していただく必要があります」
「引き継ぐとはどういうことですか」
またしても質問したのはウエムラだ。
「引き継ぐとは、つまり、えーと適年によって給付されるレベルの給付を新しい制度でも引き継ぐということなのですが」
「私からお話します」
田辺は涼子の説明を断ち切ると説明を続けた。
「百瀬さん、あのファイルをお願いします」
百瀬と呼ばれたのは、同行してきたスタッフの百瀬美樹だ。東京本部の財務部で田辺のアシスタントをしている。美樹は手際よくファイルを準備した。涼子は最近の田辺の態度の変貌の理由が明らかになったような気がした。女の勘は当たるのだ。
ポイント8:適年に不足がある場合の移行
・移行先が確定給付企業年金の場合は、移行時に一括で不足を埋めることはできない
・移行先が確定拠出年金の場合は、移行時に一括して不足を埋めることができる |
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「ありがとう、百瀬さん。では私からご説明します。適年を引き継ぐということは、適年に積み立てられている年金資産の38億円、正確には37億8,200万円ですが、それを新しい確定給付企業年金制度に移管することを指します。一方、負債の方も引継ぎが生じます。責任準備金相当の負債をそのまま移管するのです」
「すみません、ドゥトス社の顧問弁護士をしておりますシバビッチと申しますが、ちょっと質問です。その不足している22億円はどうなるのですか。不足を埋め合わせる必要はあるのですか」
「埋める必要はありません。いえ、正確には埋めることはできません(ポイント8参照)」
シバビッチが何事かをフランス語でウエムラに話しかけた。ウエムラはシバビッチの話を聞き終えると、田辺に問いかけた。
「不足を抱えたままで確定給付企業年金をドゥトスで創設するということは、いざ琵琶湖工場の3,000人を受け入れた場合に生じる不足金部分を引当金としなければならないということですね。退職給付債務を負い続けるわけですね」
「そうです。退職給付債務を負い続けるということですが、年金資産が十分にあれば引当金を積む必要はありませんし、相場がよくなれば年金資産の運用がうまくいきますから年金資産が債務を上回れば掛金が減少するというメリットもあります」
「日本にもう一度バブルが来ることを願えばいいのですか」
シバビッチが皮肉っぽく笑った。
「退職給付債務の割引率は何%なのですか」
「ウエムラさん、割引率は2.5%です。ちなみに予定利率は3%です」
今度はツォモリーノが手をあげた。
「予定利率と割引率の違いを定義していただきたい」
涼子はこの外国人たちの日本語力もさることながら、鋭い質問の連続にさっきから目を瞠りっぱなしだ。
「それでは私からご説明いたします」
なんと立ち上がったのは美樹である。
「私は以前、信託銀行の年金信託部という年金設計を行う部署に勤務しておりましたので、ご説明が可能かと思います。適年や確定給付企業年金は二つの異なるルールに沿っています。一つは退職給付会計です。会計上は退職給付債務が焦点になります。いわゆるPBOですね。PBOのPはProjectedですから、将来時点における債務を意味します。この将来時点の債務を現在価値に割り引く必要があります。割引に使われる率が割引率です。これで退職給付債務の現在価値が割り出されます。適年も確定給付企業年金も外部積立と呼ばれる制度ですから“積立”が必要です。この積立金のことを掛金と言いますが、毎月の掛金をいくらにすればよいのかは会計ではわかりません。掛金をはじき出すためには、適年などの制度をどういう具合にファイナンスすればよいのかを考えなければなりません。これが二つ目のルールで、年金財政と呼びます。責任準備金を計算する際に現在価値を割り出すための割引率を予定利率と呼びます。予定利率を高めに設定すると責任準備金の価値は小さくなり、掛金負担が楽になる傾向があります。一方、予定利率が低めだと逆の効果が現れます」
涼子はおもしろくなかった。この完璧な説明を聞いてしまうとジェラシーさえ感じてしまう。案の定、田辺は美樹をやさしげに見守っている。
「なんか、むかついちゃう」
「え?何か言いました?」
森本がいぶかしげに見ているが、無視して涼子は立ち上がった。
「それでは話を組合との協議に戻します。組合は今の議論でも出ました通り“そのまま”引き継がれるのであれば受け入れる方向です。もっとも、それは組合の執行部レベルの見解であり、まだ組合員に説明が行われている状況ではありません。私見ですが、組合委員長との協議の感触からも、新会社で確定給付企業年金を創設していただき適年を引き継いでいただければ組合員もスムーズに納得するのではないかと思います。私からの報告は以上です」
【2006年11月6日夕刻の第二幕:ドゥトスの要求】
ウエムラは涼子の一連の報告を聞き終えると、シバビッチとツォモリーノとともに別室に移った。この部屋の片隅では飯塚と田辺がひそひそと話をしている。田辺は英語の書類を広げ、その一部を指でなぞりながら何らかの確認をしているようだ。森本は資料のコピーをとるために出て行った。部屋で所在なげにしているのは涼子と美樹だけだ。
涼子は仕方なく美樹に話しかけた。
「百瀬さんってすごいですね。あれだけの年金の知識は単に信託銀行に勤務してたからってそうそう身につくものではないでしょう」
「そんな、お恥ずかしいです」
「ところで琵琶湖工場は初めてですか?」
「はい。蛍谷工業に勤務してからは特に出張もなくて…。でも大学生の頃に琵琶湖に来たことはあるんです。大学で日本史の研究をしていたので比叡山の千日回峰行の様子をリサーチに来たんですよ。千日間、過酷な修行に耐えるという荒行が残っているんです。比叡山の延暦寺は今でも天台宗が日本に伝わったころの息吹が感じられて、なんと言うか、最澄の気が渦巻いているみたいで」
「へーえ、百瀬さんってみかけによらず古典的なのね。私も日本史は大好きだったの。この近くの石山寺とか…」
「そう!紫式部ですよね。紫式部が暮らした居室のすぐ近くに、平安時代を思わせるような雰囲気の懐石料理のお店があるらしいんです。内緒なんですけど金曜日の夜に田辺さんが連れてってくださるんです。その頃には今回のプロジェクトも一段落しているだろうからって」
「金曜日ね…あら、そうなの。そうよね。金曜日なら終わってるかもね。それはよかったわね」
「状況をわきまえろよ」といった田辺のセリフがよみがえる。涼子は不思議だった。田辺の心が自分から離れていることがわかった決定的な瞬間だったが、何の感慨も起こらないのだ。ただ、これまで田辺を思い続けてきた自分があまりにも情けなかった。美樹は無邪気だ。
「すっごく楽しみなんです。何でも京都で修行した板前さんが腕をふるうらしくって。田辺さんが東京から予約してくださったんですよ」
会議室のドアが開き、ウエムラを先頭にシバビッチ、ツォモリーノが入り、全員が先ほどと同じように席に着いた。時間は7時30分近くである。ドゥトス側の協議は2時間弱も行われていたことになる。一体何を話していたのだろう。
「それでは、第二幕ですね。弁当をお配りしますので食べながら話しましょう」
なごやかな雰囲気で会議が再開したことで涼子はほっと一息ついた。みんながいっせいに弁当のふたをとる。琵琶湖工場のある石山という地域は京都の文化圏だけに、食材も飾りつけも京都風の雅が感じられる。ただ一人、弁当に手をつけていないのは飯塚だ。
「ウエムラさん、蛍谷工業と貴社との間で交わされているPurchase Agreement、売買契約と訳していいかと思いますが、このPAでは、“琵琶湖工場の従業員の退職給付は同じものとする”と書かれていますね」
飯塚はここで少し間をおいた。さっき飯塚が田辺と話していた内容はこれだったのだ。涼子は心の中で快哉を叫んだ。勝負は決まったようなものだ。隣の森本と目をあわせて涼子は小さくガッツポーズを作った。
「PAにはこのような記載がありますので退職給付制度については先ほどの、弊社の白川の提案通りに確定給付企業年金を作っていただくという方向性で異論はないと思います。明日は工場の設備等を実地にご覧いただいて資産査定の確認をするという重い項目もありますので今日はこれで議事は終了としたいのですがいかがですか」
飯塚はウエムラを見た。ウエムラはあきらかにあわてた様子だ。涼子は冷徹そうなウエムラがうろたえている様子が痛快だった。ツォモリーノはしきりと手元のファイルのページを繰っている。PAを探しているのだろうか。涼子が不気味だったのはシバビッチだ。ニヤニヤと笑いながら参加者の表情をねめまわしている。そして誰も発言しないことをみはからって口を開いた。
ポイント9:確定拠出と確定給付
・確定拠出年金制度は退職給付債務を負わない
・確定給付タイプの適年、厚生年金基金、確定給付企業年金等は退職給付債務を負う |
ポイント10:確定拠出年金の特徴
・個人ごとの口座開設
・事業主による拠出
・加入者による運用
・事業主は加入者の運用の如何にかかわらず追加拠出の義務を負わない
・口座資金の持ち運び(ポータビリティ)の存在
・税制上の優遇措置
・60歳時点での給付開始 等 |
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「ドゥトスの基本スタンスは、新会社では確定給付企業年金を持たないということです。先ほどのご提案にはノーという返事をするということです(ポイント9・10参照)」
「いやいや、シバビッチさん。ノーとおっしゃるのは勝手ですが、それではPAを無視するのですか。それとも破棄されるのですか。契約はしっかりと守ってもらわないと困る!」
飯塚は語気鋭く言い放った。シバビッチはじろりと飯塚をにらみつけた。
「いえいえ、PAは守りますよ。遵守します。ビジネスの基本ですからね。飯塚社長こそしっかりとPAを読んでいただかなくては困りますね。いいですか」
シバビッチはPAを開いてゆっくりと読み上げた。
「“琵琶湖工場の従業員が受けていた退職給付と同等のレベルの制度を準備する”とは書いていますが、“同じ制度を継続する”とも、“同じ額にする”とも書いていませんよ」
「それは詭弁だ。言葉尻をとらえるんじゃない!」
飯塚の叫びを飲み込むかのごとくにシバビッチの説明を聞いてすっかり冷静を取り戻したウエムラが低い声で話し始めた。
「飯塚さん。残念ですが、われわれドゥトス社はグローバル基準で確定給付型の制度の新設はしないのですよ。適年であろうが、確定給付企業年金であろうが、退職一時金であろうが、退職給付債務を負うような制度はグローバルで保持しないのです。日本だけ例外というわけにはいきません」
「それでは約束が違う」
「飯塚さん、ドゥトスが約束しているのは、“同等のレベルの制度”ですね。適年と同じように法律に基づいている同等にしっかりとしたレベルの制度をお約束しますよ。わたくしどもの案をご提示しましょう。シバビッチ弁護士がドゥトスのグローバル基準に照らして作ってくれた案です」
シバビッチはペーパーを配布した。
「それではペーパーにしたがってご説明しましょう。まず琵琶湖工場の適年は解除します。解約というべきでしょうか、要するにやめるということです。やめた際に適年の資産は従業員に分配されることになります。これに…」
「それは無理じゃないですか?」
声をあげたのは森本だ。おとなしい森本だが腹に据えかねるものがあるのだろう。
「琵琶湖工場はドゥトスに買収されるわけであって、退職するわけじゃないですよね。適年からの資産の払い出しは退職に限られているではないですか」
「はいはい、その通りですね。法律的には今回の買収は営業譲渡という形態をとっています。営業譲渡の場合、営業権やそれを実現する手段である工場等は譲渡されますが、そこで働く従業員の労働契約の移転には個別の同意が必要だという認識でいます。今回、琵琶湖工場の従業員3,000人を新会社が受け入れるというのは、個別の同意があってのことですが、いずれにしろ、従業員は一度蛍谷工業の琵琶湖工場を退職し、ドゥトスの仮称琵琶湖工場に転籍することになるのです。ここにおいて退職が発生するのです。もっとも…」
シバビッチはわざとらしく森本を見た。森本も視線をそらさずに見返している。
「もっとも、これが退職所得として認められるかどうかを所轄の税務署に確認する必要はありますがね。いいですか森本さん。私はご質問にお答えしましたか」
しだいにドゥトス側に主導権が移っていることに涼子はあせった。
「さて、適年を解除して3,000人の従業員に退職金を払ってもまだ足りません。適年は不足を抱えていますからね。足りない分は一時金から支払います。いや主語を間違えました。私たちが払うのではないですね。蛍谷工業で支払ってくださいね。琵琶湖工場を退職する時点において従業員はもらえるべき金額は全部もらえることになります。退職給付の考え方では、過去分を精算するということになりますね」
シバビッチはここまでしゃべるとペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。一気に半分ぐらいまでぐいぐい飲んでいく。
「ドゥトスに移ってくる従業員はこれまでの勤務期間に相当する退職金はすでに手にしているわけですから、ちょうど新入社員と同じことになるのです。彼ら、新入社員に適用される退職給付制度は2001年に日本に導入された確定拠出年金、俗にいう日本版401(k)です」
「確定拠出なんて導入が大変なんでしょう?従業員個人ごとに口座が開設されて、口座資金は個人が自分の決断で運用するのですよね。琵琶湖工場の従業員にいきなり運用しろって言っても…そもそも投資教育などの準備が間に合うのですか」
「百瀬さん、いいポイントですね。確かに投資教育は大変ですよ。でも、半年あれば大丈夫。それに今や日本では約200万人の加入者がいるというではないですか。琵琶湖工場の人たちも大丈夫!」
シバビッチの豊富な知識に瞠目する涼子を横目に美樹は冷静に質問を続けた。
「確定拠出年金を導入するというのなら、適年の資産を移換できるのではないですか。わざわざ退職金を受け取らずともよいのではないですか」
「百瀬さん、あなたは歴代の私の交渉相手のなかでも最も手ごわい人かもしれないです。鋭い点をつきますね。確定拠出に適年の過去分あるいは年金資産を引き継ぐ条件は同じ事業主であることです。今回の営業譲渡のスキームは事業主が変わりますから資産移換はできません。どうですか、確定拠出年金も悪いものではないですよ。個人にとっては運用の知識が身につく、あるいは税金の優遇措置を受けながら運用を行えるといった利点があります。会社にとっては退職給付債務がないという利点があります」
涼子は飯塚を見た。このままでは、服部と約束した案が瓦解してしまう。組合員をどうやってまとめるというのだ。その気持ちが伝わったのだろうか。飯塚がしゃべり始めた。
「ウエムラさん、ドゥトスの案はわかりました。退職給付債務を持たない、これがドゥトスのグローバル戦略だということもわかりました。でも、あなたは大事なことを忘れている。どうやってこのようなドラスティックな案を3,000人の従業員に納得させようというのですか」
「飯塚さん、納得させるのはあなたの役目でしょう。私たちはいいのですよ、納得できないのなら受け入れる必要はどこにもないんだ。転籍の同意書にハンコを押さないやつに来てもらったって仕方ない。そんなやつに給料を払うなんて馬鹿らしいことはしませんよ。なんなら求人誌に広告を出しましょうか。ドゥトスのブランドを持ってすればあっという間に人は集まりますよ。飯塚さんは3,000人の余剰人員を抱えたままで頑張ればいいだけだ」
ウエムラがついに牙をむいたのだ。外資による買収がただのゲームではないことは、わかってはいたが現実の迫力の前に涼子は言葉もなかった。
「失礼だぞ。脅迫するのか!」
田辺がたまりかねて叫んだ。ウエムラは動じない。
「脅迫だなんて怖い言葉を使いますね。私は脅迫も恐喝もしませんよ。事実を言っているだけだ。そうそう、田辺さんは財務畑だから飯塚社長よりは物分りはいいでしょう。このまま双方の契約が前進しないなら今月に予定している一時金のお支払いはむずかしくなりますね。私どもはまったく構いませんよ。契約の調印が半年や1年ぐらい延びたってなんてことはないですよ。困るのはそちらではないですか。契約の遅れと私どもの現金の払い込みが遅れることが何を意味するかはわかっておられますよね。どこかからファイナンスを受けないと不渡りを出してしまうのではないですか。ま、私がとやかく言うことはないし…案外、倒産してからの方が安く買えるかもしれませんな」
【2006年11月1日:ニューヨーク】
全米最大のネットワークのANBNの臨時株主総会で大株主変更の決議がなされた。この決議により、フランス系コングロマリットから、ドイツ系の石油メジャーに大株主が変更になった。この石油メジャーの影の持ち主はドイツ経済省の重鎮でもある。
総会後、この彼がなによりも優先したのは「報道抑制のニュースリスト」に目を通すことだ。このニュースリストにはANBNが事実を把握してはいるが、政府等の要請や圧力で報道を規制している事項が並んでいる。特に機密を要するニュースにはSPという文字が付されている。彼はリストのNo.3で目をとめた。このニュースにもSPの文字がある。
「リストのNo.3を解除するように」
彼は側に控えている役員に指示を出した。
「それは、国務省からの依頼でとめているのですが」
役員はあわてて返答した。
「解除しろと言っているのだ。聞こえないのか」
役員が急いで出て行くと彼はつぶやいた。
「これでフランスの自動車産業も打撃を受けるだろう」
【2006年11月7日:頼みの綱】
涼子はアパートに戻るとソファーに倒れこんだ。
「もう、さんざんよ。昨日はドゥトスにこてんぱんにやられたし、今日は服部さんに叱られたし…」
昨日のドゥトスとのミーティングを受けて、涼子は午後に服部委員長のもとに出向いて状況を説明したのだ。予想通り、服部の思いは「承服できない」「約束と違う」というものだった。現経営陣に対する批判も混じる。途中からは副委員長の田中も加わって怒号の嵐になった。もっとも一方的に怒鳴られるのは涼子と森本なのだが。
ドゥトス側への回答期限は木曜日だ。残るは水曜日しかないのである。それまでに大筋を決定しなければならない。ドゥトス側の要求は二つに絞られている。「転籍時に蛍谷工業勤務に関連する退職金はすべて精算すること」そして「新会社では確定拠出年金100%の退職給付制度とすること」である。
涼子は携帯電話を手にした。もちろん頼るは佐渡島である。
「やぁ、涼子ちゃん、まだ決着しないのかい」
「まだどころか難題につぐ難題よ」
「ほほう、その難題は何題ぐらいあるのかな」
「もう、おじさんやめてよ、今は笑う気力もないのよ」
涼子は一連のできごとを佐渡島に説明した。
「なるほどねぇ、確定拠出100%か。でも悪くはないね」
佐渡島の返事は意外なものだった。
「要するに、これまでの分は蛍谷工業が支払ってくれるんだよね。今後の分、つまり将来分を確定拠出に移行して新会社が掛金を支払うということだね。おじさんの経験でもこういう移行の方法はあるよ」
「それじゃ、そんなに悪いやり方でもないのね。買収する会社の代表のね、人相がすごく悪いから変な印象を持っちゃったの」
「そもそも、営業譲渡だから事業所が存続するわけではないし、琵琶湖工場の従業員は転籍するんだよね」
「そうよ」
「事業所が存続するのであればいろいろな方法があるんだけど。例えば、適年の年金資産の額まで給付減額をして、その資産を確定拠出に持ち込むんだ。残りは一時金として分割払いにするんだよ」
「減額とか分割とか…」
「一定の給付を約束すると、それに見合う責任準備金が計算される。責任準備金はあるべき年金資産額でもあるわけだ。それに足りないと不足が出るんだよね。逆転の発想で、今の年金資産で支払えるレベルまで給付を下げるのさ。すると責任準備金が小さくなるから不足がなくなるんだよ。これには従業員の三分の二の同意が必要だけれどね」
「下げた分の支払いが一時金なの?」
ポイント11:退職一時金の確定拠出への移換
・制度移行の際に、確定給付型などの企業年金制度で給付減額が行われることがある。
・減額された分を補うために退職一時金が積み増される場合、その退職一時金を確定拠出に移換することができる。
・退職一時金を確定拠出に移換する場合には、4年から8年の間の任意の期間で分割移換することができる。
・給付減額の有無にかかわらず、退職一時金を確定拠出に移換することが可能であるが、4年から8年の分割移換が必要である。 |
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「そうだよ、例えば1,000万円もらえる約束だったものが600万円まで給付減額されたら、減った400万円は一時金として4年から8年の間の期間で分割して確定拠出の口座に移換することができるんだよ。結構、便利だから確定拠出は制度変更時によく利用されるんだ。でも、いずれも今回のケースにはあてはまらないよ(ポイント11参照)」
「ちょっと待ってね、メモするからね」
「そろそろメモの準備はできたかな。確定拠出で注意すべき点がいくつかあるんだ。まず、60歳の誕生日を迎えないと口座からの払い出しができないという点だよ。例えば30歳の人が新会社に転籍すると30歳以降の拠出金はすべて確定拠出の口座に入金されて60歳になるまで払い出しはできない。例え、40歳で辞めても退職金は出ないんだよ」
「それは聞いたわ。勤続3年未満で辞めると口座にある事業主拠出に相当する部分は事業主に返還するというルールを作れるとか…」
「お!よく知ってるねぇ。今回の件で問題は、従業員の人たちへのインパクトかなぁ。100%確定拠出という事例は多いのだけれど、移行の一時期はソフトランディングのために確定給付企業年金と確定拠出年金を50%ずつにするとか、いくつかの緩和策があってもいいと思うけどね」
「ダメなのよ。確定拠出100%って頑として聞き入れないの」
「グローバルでの潮流だからねぇ」
「そんなことも言ってたわ。グローバル基準だって。ところでね、おじさん、私はこれから何をしなければいけないのかしら。確定拠出に移行するとしたらどうすればいいのかしら」
「大変な手間だぞ。おじさんはこのプロセスを何度もコンサルティングしてきたけれどプロの支援がないとうまくいかないと思う。まず、今の琵琶湖工場の退職金規程と適年の退職年金規程をもとにして退職金カーブを描くんだ。総合職、一般職、特別職といったように職種別に分けてカーブを描くことがいいと思うよ」
「琵琶湖工場は3年前にポイント制に移行しているのよ。その時に作った退職金カーブがあるはずだわ」
「よし、それが使えるね。次はモデルをもとに最終的な受取額をはじき出すんだ。受取額が総合職のAさんの場合に1,000万円だとしよう。今回の転籍で600万円の退職金が出たとすると、残りの400万円は確定拠出から支給されることになるんだ」
「Aさんが残りの勤続が10年であれば、毎年40万円ずつ確定拠出年金の口座に拠出すればいいのね」
「基本的にはそういうことなんだけど、想定利率というものを考慮する必要があるよ。従業員が自分で運用するのだけれど、やはり少しは運用益が出るはずだ。その運用益を加味して最終的な受取額の400万円になるように拠出金を決めればいいんだよ」
「何%にすればいいの」
「それはさまざまだね。低金利だから銀行預金の利率は0.1%といった状態なので、いっそ想定利率を0%にする例もある。一方、昨年度、日本株は50%を超える利回りだったので、株で投資していることも考慮して2〜3%にする例もあるよ。交渉しだいだね」
「そうそう、交渉といえば確定拠出年金制度の導入はどうすればいいの」
「従業員の二分の一以上の代表者による同意あるいは従業員の二分の一以上の組合員で組織する組合の代表者の同意だね」
「組合の委員長でいいのね」
「涼子ちゃん、適年は大丈夫かな。今回の転籍にあたって支払われる退職金は会社の退職金規程をもとに支払われるので金額は明らかだろうけど、そのうち、いくらが適年から支払われるのかを受託機関である信託銀行や生命保険会社に計算してもらうのに数週間から長くて2カ月くらいかかるからね」
「わかったわ。適年の解除の同意は三分の二なの?」
「それは給付減額だよ。解除は事業主の同意のみで完了するんだ」
「かなりわかってきたわ」
「確定給付にするか確定拠出にするかのどちらがいいのかは神のみぞ知るってことだよ。どちらにもメリットがありデメリットがある。大事なことは利用者である従業員に十分に説明を尽くすことだよ」
「おじさん、ありがとう。少し元気が出てきたわ」
「涼子ちゃん…」
「なに?聞こえてるよ」
「どうしようかな、言わないほうがいいかな、でも言おう。おじさんね、ちょっと気になってるんだけど、過去にこんな事例があったんだよ。アメリカの会社が日本の会社を買収した時のことなんだけどね。新会社に転籍するときに、従来の退職金規程で退職金を払うところまでは、今回のケースと同じなんだけどね。その後が違うんだ。確定拠出は採用したんだけど、拠出金の決め方は従来の規程とは全く違っていてね。アメリカ流で決まったんだよ」
「そんなの約束と違うじゃない。違法よ」
「いやいや、約束もしていないし違法でもなんでもないよ。新会社への新入社員として入社するわけだよね。これまでの会社とは関係のない設計ができて当然だよね。要は入社する人が同意さえすればいいわけだ。今回はそんなことにはならないと思うけど」
【2006年11月4日:ロンドン】
「大臣、今はどちらにいらっしゃいますか」
「ロンドンだ。君に伝えることがある」
会話はフランス語だ。
「ANBNが動き出したぞ」
「まさか」
「私は手を引く。今後いっさい連絡をしないでくれ」
「あ、大臣!ジャッシュ大臣!」
電話は切れた。
【2006年11月8日:完全降伏の水曜日】
まだ11月の初めとはいえ朝は十分に冷える。琵琶湖工場の周囲は木々が豊かな山が多い。山からの冷気は水分を含んでいるので涼子の髪も服も冷たく湿らせる。
「どういうことか説明して欲しいんですわ。わたしら、何が起こったのかさっぱりわかりませんわ!」
組合委員長の服部の怒声が響いた。涼子はその声にとびあがった。ウエムラは椅子にななめに腰掛けて窓外の景色を見たまま微動だにしない。シバビッチは相変わらずニヤニヤと笑っている。
「服部さん、本当にすまないと思う。適年と同様の制度を新会社で作ってもらえるように努力してきたんだが、ドゥトス側のウエムラさんの意向もあって。そうはいかないことになったんだよ」
「飯塚社長、組合員はみんな蛍谷工業に就職して、蛍谷工業のために働いとるんでっせ。例えフランスのドゥトスっちゅうところが資本を肩代わりしてくれはってもその気持ちは変わりませんわ。経営とか資本とかは私らにはわからんのや。いや、わからんでもええのや。私ら、今のままでこの琵琶湖工場で一生懸命働けたら本望ですわ。その気持ちを汲まずに、とりあえず退職金を出すから今までを精算せぇと、その後は新しい会社に転職して新入社員としてやっていけと言うんですな」
「服部さん、私だってつらいんだ」
「あんたは社長やからつらくて当たり前や」
服部は断じた。
「当たり前や。それが社長や。社長はつらいこともやるから皆が尊敬するんや。違いまっか」
瀬田川を走る小さな漁船の船外機がポンポンと音を立てている。早朝からのしじみ漁の帰りだろう。
「ぼく、しじみ漁でもやろかな。会社辞めたろかな」
副委員長の田中がつぶやいた。
「田中君、君までなんだ。そんなことは言わないでこれまで通りに働いて欲しいんだ」
ウエムラが視線を変えずにしゃべり始めた。
「今日は水曜日か。明日の木曜日は回答の期限ですね。期限の前日なのにまだこんな議論をしているようでは、飯塚社長のリーダーシップが問われますね」
ウエムラは服部の方に向き直った。
「服部さん、嫌なら辞めてもらって結構です。あなたがそうしたいのなら組合員全員をまとめて辞めてもいいですよ。私は淡々と新規に人を募集をするだけです。働き口が見つからない人は一度辞めてもまた応募してきますよ。言っときますが、わがドゥトス社は何の悪いこともしていませんよ。退職金は正規に支払うし、新たな採用者に対しては確定拠出年金という制度を用意するわけですからね。私は争いません。あなたが争うというのなら勝手にやりなさい。ところであなたは誰と争うのですか。飯塚社長とですか。自分自身の信念とですか。何にしろご苦労なことだ」
ウエムラは顔色も変えずにいる。
「服部さん…いや、田中君も皆も聞いて欲しい。言いたくなかったが言わざるをえない」
飯塚は田辺をちらりと見やってから言葉を続けた。
「今日のうちにドゥトスに承諾していただかないと、わが社は今月末にも破綻してしまう。わが社の経営状況に不安を抱き始めたメイン銀行からの短期融資は受けられない状況なんだ。こんな状態にしてしまった私の責任問題は当然問われるだろう。しかし、そうなる前に…幸いドゥトスはこれまでの退職金もきちんと支払ってくださるし、今後は確定拠出になるとはいえ従来と同じレベルの給付が退職時に受け取れるように設計されるはずだ」
涼子はハッとしてウエムラを見た。昨夜、電話の最後で佐渡島が言っていた話を思い出したのだ。“確定拠出で従来と同じレベルの給付が退職時に受け取れるようにする”とは、飯塚が勝手に思い込んでいることではないだろうか。果たしてシバビッチが立ち上がった。そして宣告が開始された。
「飯塚社長は勘違いをしておられますね。退職金は約束通りに蛍谷工業において支払われます。確定拠出はドゥトスの新会社で実施します」
「そんなことはわかっている」
飯塚が言う。
「そうですか。安心しました。ドゥトスの確定拠出の拠出金レベルはドゥトスで独自に決定しますよ。誤解のないように申し上げますが、従来の蛍谷工業の退職金規程は関係ないですよ」
「それは不当な給付減額だ」
森本がシバビッチに噛み付いた。
「給付減額って何に対してですか?蛍谷工業では退職金をもらっていますよね。新会社には同意の上で入社するのですよね。そりゃ新会社が“蛍谷工業にいた場合と同じように払う”と同意書にうたってしまってそれを破れば給付減額でしょうがね。違いますか?」
森本はくやしさで歯噛みしている。
断続的に折衝は続いた。そしてついに服部が折れた。
「これも時代の趨勢やな」
交渉は終了した。ウエムラの、そしてドゥトスの圧倒的な勝利だった。2006年11月8日午後5時のことである。
【2006年11月8日午前9時:パリ】
「今年4月に起きたあの事故の原因がわが社のモニタリングシステムにあるという結論が出たということだな」
「残念ですが、これ以上は抑え切れません」
広報担当の重役が答えた。
「明日にはメディアに流れるでしょう。時差を考えると一般大衆が今回の事件を知るのは日本かオーストラリアが最初でしょう。その後、ヨーロッパが朝を迎え、アメリカに朝日が差すのはその数時間後です」
「時間が欲しい」
ドゥトスグループのパリ本社。早朝から会議を続けたせいで疲労が色濃い役員を前に社長のジョルマ・ドゥトスは肩を落とした。
「非常事態だ。現在の全てのプロジェクトは白紙に戻す」
彼の腕時計は午前9時を指していた。時差のせいで8時間早い日本の時刻は11月8日の午後5時だった。
【2006年11月9日:本契約締結】
「瀬田ゴルフコースはなかなかすばらしいコースだな。これからは頻繁に来ることになるだろうから会員権を手配しなきゃな」
午後2時、少し早めにラウンドを終了したウエムラはツォモリーノに話しかけた。シバビッチと3人のパーティなので朝の9時にスタートして18ホールを回ってもまだこの時間だ。
「あの11番は攻略が難しいね。受けグリーンなのはいいのだけれどフェアウェイ横のビーチバンカーがなんともプレッシャーだ」
ウエムラは珍しく機嫌がよかった。何しろ、あと1時間もすれば本契約を交わせるのである。クラブハウスから瀬田川を見下ろすウエムラの眼下には蛍谷工業の広大な工場が眼下に広がっている。
「やっとオレのものになった」
ウエムラは満足だった。
涼子は朝から休む暇なく作業を続けていた。もはやドゥトスとの契約締結は避けられない。ニュースはすぐに流れるだろう。翌日の金曜日には全従業員に対して速やかに説明会を実施しなければならない。少しでも時間が遅れれば従業員には不信感が芽生える。そうなると転籍もうまくいかなくなるのだ。
森本も働いた。悲しむ暇も、怒る暇もない。明日の説明会用の場所の手配、資料の作成とコピー、その後に控える各種の機関との交渉、説明とやることは山のようにある。
今の森本を動かしているものは、涼子の黙々と働く姿だけである。
「なんだかわからないけど、ともかく涼子さんが頑張っているうちは、ぼくも頑張ろう」
11月の寒さの中でも森本の額には汗が浮かんでいた。
「森本君」
突然、涼子が森本を呼んだ。声の方に顔を向ける。涼子は総務部の窓から外を見ている。
「来たわ」
時計は午後3時を指している。ウエムラ達がやってきたのだ。飯塚や田辺は契約締結のセレモニーを行う第一応接室にいるに違いない。
「涼子さん」
「さ、がんばりましょ。明日からは死に物狂いよ」
涼子は表情を変えずに作業に戻っていった。
【2006年11月9日:ブルボン宮】
日本時間の午後3時、パリは遅い夜明けを迎えた。時刻は午前7時である。セーヌ川に面するブルボン宮は古くから下院として使われている。
朝の閣議の準備をしていた国家産業省大臣アロン・ジャッシュのもとに3人の捜査官が現れた。捜査官のブリーフケースには昨夜のうちに準備された逮捕状が入っている。
【2006年11月9日:シャンドフルールの夕べ】
「乾杯!」
「A Votre Sante!」
グラスが触れ合って契約締結のパーティが始まった。涼子が琵琶湖工場に赴任したときに目にしたホテル・シャンドフルールのパーティルームが会場だ。ツォモリーノはこの日を待ち望んでいた。今年3件目のM&Aの成立だ。これでバンク・ル・ソレイユのノルマは達成だ。来年にはマネージング・ディレクターに推挙されるだろう。
蛍谷工業からは飯塚をはじめとするボードメンバーが参加していた。田辺や美樹の姿は見えるが、涼子と森本の姿はなかった。
「ウエムラさん、あと20分で8時半になります。そろそろお開きにしなきゃいけないので、最後のあいさつを頼みますよ」
ツォモリーノがウエムラに耳打ちをしている時だった。シバビッチが小走りにウエムラの元に駆け寄ってきた。めったに顔色を変えないシバビッチがあわてている。ウエムラに二言三言ささやくと携帯電話を渡した。やりとりを始めたウエムラの顔色がみるみる変化した。
「昼のニュースに出たというのか…本当なのか…どうしてそんな大事なことを・・・うるさい、バカを言うな」
電話を切ると、ツォモリーノが止める間もなく、ウエムラとシバビッチはパーティルームから出て行った。廊下から2人が言い争う声が聞こえたが、それもすぐにジャズの生演奏にかき消された。
【2006年11月10日午前1時30分:新聞社】
大手町に本拠がある新聞社のフロアにチャイムが鳴り響いた。重大なニュースが配信される時の特別な合図だ。朝刊の最後の校了を済ませたデスク、帰り支度をしている新聞記者達の目がいっせいに電光掲示板に注がれる。黒の背景にオレンジ色の文字が列をなして出てきた。
「フランスの自動車精密部品会社のドゥトスグループをフランス警察が捜査開始。今年3月から世界各地で頻発した突発性のエンジン制御不能による事故の原因が同社のモニタリングシステムにある模様。事故による死傷者は累計で100名を越えており責任問題に発展か。同社社長は製品のプログラムミスの可能性を否定せず、全世界で製品の回収、交換に言及。同社への信頼度の低下、財務への影響は計り知れず…」
デスクが叫ぶ。
「なんだこりゃぁ!おい、14版なら間に合うだろ。すぐに記事を起こせ。パリ支局だ!株のアナリストのコメントを取れ」
フロアが活気を取り戻した。
【2006年11月10日:神風】
「中止だ!中止だ!」
午前7時、ツォモリーノとの電話会議を終えた飯塚は立ち上がって叫んだ。飯塚の大声が琵琶湖工場に響き渡る。飯塚は満面の笑みでなおも叫ぶ。
「中止だ!中止だ!従業員説明会は中止だ!神風だ!ついに神風が吹いたぞ!」
同じ頃、朝食の最中だった服部はニュースの画面を凝視していた。左手には味噌汁の椀を、右手には箸を持ったままだ。画面にはドゥトスグループのパリ本社が映し出されたあとで、フランスの首相官邸補佐室長の記者会見の場面になった。
「これはドゥトスだけではなく、わが国の自動車業界を震撼させる重大な事態であり、ドゥトスはただちに全業務を停止し原因究明を…政府としても閣僚がこのような事態になった以上、信頼回復のためにあらゆる手段を…」
服部は食卓を離れた。震える手で着替えをして玄関に向かう。服部の妻がびっくりして叫んだ。
「お父さん!どうしたんですか!ズボンをはいていませんよ!そんな格好で外に出たらご近所からなんて言われるか」
田辺の前には森本、美樹そして涼子がいる。
「昨夜遅く、というよりも今日の早朝に、ドゥトスから買収契約の破棄が通告された。朝からニュースになっているんだが、ドゥトスの製品が不良であることが判明したためだ。最近の原因不明の事故の原因がドゥトスの製品だということだ」
森本が口をはさんだ。
「ドゥトスが原因だったのですか…いやはや」
「田辺さん、契約の破棄は喜ばしいことですが、当社はどうなるのですか?先方が契約しないということは先方から現金も入らないということでしょう。今月中に手当てしなきゃいけないお金が入らないと、うちは大変な状況に…」
「いやいや、奇跡が起きたんだよ。わが社の顧問弁護士が指摘してくれたのだけれど、昨日、契約を締結した後でのドゥトスの事由による破棄なので違約金が入るんだ。社長は朝からドゥトスの顧問弁護士のシバビッチと協議して、それが確実であることを確認した。本契約を済ませておいてよかったよ。一日ずれていたら、うちもドゥトスも共倒れになっていたかも知れない。先ほど、メインバンクの支店長をたたき起こして、こちら側の了承も得た。そもそもわれわれの脅威であったドゥトスがいなくなるから、われわれへの注文は確実に増加する。業績もめどが立つんだよ。君たちは何も心配いらない。今日、予定されていた従業員説明会は全て中止だ。これまで通りの制度が維持される」
「あれ?」
森本は正門をあたふたと走りこんでくる服部を見つけた。
「服部のおっちゃんに早く知らせなきゃ。また、どやされるよ」
森本は駆け出して行った。
【2006年11月10日:エピローグ】
正門前には黒塗りのタクシーが飯塚のために用意された。
「それじゃ、これから東京に戻ってプレスやアナリスト向けの対策をするよ。百瀬君には申し訳ないが、私と同行して欲しい。退職給付の問題をつかれるとしどろもどろになるのでね」
飯塚は涼子に向き直った。
「しかし、今回は事なきを得たが適年の制度変更は喫緊の課題だな。確定拠出を含め、早速、移行の具体案をまとめるように」
「わかりました。おまかせください」
涼子が答えると飯塚は満足げにうなずき後部座席に乗り込もうとした。ドアが閉まる前に田辺があわてて走ってきた。
「社長!私も同行した方が…」
「あ、田辺君はいいよ。財務の方は私で対応できるから。それじゃ、みんな、ありがとう。特に白川君と森本君、すごく頑張ってくれた。礼を言うよ」
タクシーを見送ると、田辺が涼子の腕をつかんで片隅に引っ張っていった。森本は正門の真ん中に突っ立っている。ジェラシーで突っ立っている。
「涼子ちゃん、お疲れ様。ごめんね、今まで相手できなくて。今日はね、涼子ちゃんのために石山寺の懐石料理を予約してあるんだよ。久しぶりだからゆっくりとディナーにしよう」
涼子は田辺の手をとると自分の腕からやさしく引き離した。離された手を田辺が涼子の肩に回そうとした瞬間、涼子の手のひらが田辺の頬に炸裂した。“パーン”という音と「痛ッ!」という叫びが交互に夕闇の瀬田川にこだまする。
呆然とする田辺にきびすを返すと涼子は森本に駆け寄った。
「ね、森本君!田辺さんが百瀬さんとデートするために予約していた懐石料理なんだけど、森本君と私で行っていいんだって!思いっきり食べましょ。この激動の10日間の退職給付制度構築の反省会よ!」 |
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| (了) |
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『別冊会計情報』Vol.5(トーマツリサーチセンター発行/2006年12月)
山本御稔執筆分より抜粋 |
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