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Let’s Play A Global Talent Game, Shall We?:相撲・柔道それとも野球・サッカーか? -グローバル化における人事制度(=ゲームのルール)選択問題について考える(2)-

Initiative Vol.44

著者: デロイト トーマツ コンサルティング ディレクター キャメル ヤマモト〔山本 成一〕

前回は、グローバル化には、1. 「日本式人事」を世界に展開する「外への日本化路線」と2. 「グローバル人事」を日本にもとりいれる「内なるグローバル化路線」の二つがあること、本連載では後者を扱うことについてまず述べて、後者を考える補助線として「スポーツにおけるグローバル化」について考えてみました。

今回は、二つの路線について、スポーツの比喩でなぞりながらその中身をふくらませてみます。

第一路線(外への日本化路線)における「相撲」から「柔道」への展開

第一路線は、国内で「相撲」をつくり、そこに若干の外国人もはいってくるのですが、その後、本格的に世界に展開する中で「柔道」的になっていく、という風にイメージできます(相撲が柔道になっていく可能性はほとんどないのであくまでイメージですが、両者の差異が企業のグローバル化にとってもつ意味はあとで簡単に触れます)。

実際、ある日本の代表的企業は、90年代の半ばに、欧米の状況に詳しい方がCEOとなり、彼のイニシアティブで、グローバル化について本格的な議論をすすめました。その際、自社のモデルについて、まさに、「相撲」でいくのか、「柔道」でいくのか、という問いかけをされたそうです。CEOの方の意図は、柔道でいこうということだったようですが、役員会での結論は「相撲」になったそうです。その意味で、この比喩は企業においても使われた実績をもつ比喩です。

第二路線(内なるグローバル化路線)は相撲とサッカーを一緒に行うようなもの

第二の路線は、一方で、相撲・柔道をやっていて、他方で、サッカーないし野球をやることになります。
一方でというのは、第一の路線のように、国内で相撲、それを海外に自前で(つまり買収ではなくて)展開するという意味です。そして多くの場合、日本人の大半は、(国内外で)相撲・柔道をやります。他方でというのは、外国人が(第一の路線なら相撲・柔道をやるのですが)、第二の路線では、サッカーないし野球をやることを指します(自前組織で育てた外国人の中には、相撲・柔道が日本人並にできる人もでてきますがそれは例外です)。

買収先外国企業がそれまでサッカーをやっていたのであれば、相撲に改宗させないで、そのままサッカーをやって稼ぎ続けてもらうわけです。もちろん、プレイヤーもそのまま温存します(名監督も温存します)。

実は、第二の路線をとる日本企業にはグローバル化ビギナー企業も多く、その場合、柔道的なゲーム(自前の海外展開)はまだあまり始まっておらず、純粋国技の相撲を国内でやりながら、海外ではいきなり「サッカー」・「野球」的な外資組織をかかえることになります。かかるケースでは、せっかく一つの会社でありながら、国内で相撲をやっている日本人人材は、海外にいってすぐにサッカーをやるわけにはいきません(スポーツの世界なら、日本人の野球選手やサッカープレイヤーを国内で調達して派遣することができそうですが、ビジネスではどうでしょうか)。

海外でサッカーをやっている外国人人材も、日本にやってきてすぐに相撲をやるわけにはいきません。それでも、もし、相撲とサッカーのように、その企業が日本でやっていることと海外でやっていることがまったく別のものであれば、相互交流ができなくてもそれほど支障はないでしょう。

しかし、企業活動の場合、そういう明確な切り分けができない場合も多いのではないでしょうか(金融系企業なら、投資銀行的な業務は外資的に、日本国内のリテールは日本的にというふうに、事業のラインで明確に切り分けられれば、とりあえず構わないのかもしれません。しかし、その場合でも、両方をみることになる本社機能はどうなるか、そこでの日本人はどちらで処遇するのか、二つが併存して問題がないのか、という論点は残ります)。

今とりあげた相撲・柔道・野球・サッカーの力をかりて、もう少しイマジネーションをふくらませてみます。

「相撲」と「場所」の意味するところ

相撲にひっかけていうとこんなことがいえます。

横綱や大関等の上層部にはモンゴル出身者をはじめとして外国籍の人が多いのですから、例えばモンゴルで「本場所」を開催することがあっても決しておかしくないでしょう。さらに、ほんとうの意味で日本方式で世界を席巻するなら、モンゴルに限らずいろいろな「場所」で「場所」を開催することもありえるでしょう(ただし、その場合は、スポーツというよりも、伝統芸能の上演のように興行的な性格になるのかもしれません)。そういえば、余談ですが、ある商社では、海外の拠点のことを「場所」とよんでいました。

ビジネスモデルや強味の型を、そのまま海外にもっていける企業は、国内の「場所」を使って外国人を日本人化した上で、彼らを海外に連れていき、海外で「場所」を展開することが可能になるかもしれません。逆に、日本自体に世界中から外国人をよびこんで活躍してもらうということも相撲モデルにあやかれば可能です。その意味で、日本が世界の中心であり続ける、そうでありながら世界に場所を展開する、そういう姿を夢見ることも可能でしょう。

実際、一部グローバル化で先行した日本のメーカーの中には、国内がメッカのような人材育成の「場所」になっているところもあるわけです。

「柔道」的な道の運命

柔道のようなグローバル化を企業にあてはめると何がみえてくるでしょうか。

たとえば、第一路線が順調にすすみ、外国人も乗ってこられる日本モデルができた時、実は、その日本モデルはもはや日本人主導でそのルールを改定していくのではなくて、外国人主導で改訂していくことになります。もちろん外国人の間に日本人もまざるのでしょうが、この路線が順調に進むにつれて、ルールメーカ―としての日本人は少数派になっていきます。軒を貸して母屋を取られる感じがしないでもありません。

実際、自前のグローバル化を行っている日本企業では、それが成功すればするほど、染め上げられる外国人の数が増えて、それにつれて、しだいに外国人の影響力が強まっていくでしょう。ただ、企業の世界では、いま描いたような柔道のレベルに達したところは、私の知っている範囲ではまだほとんどないだろうと思います。良くも悪くも、日本人主導が保たれています。

日本オリジンの企業が、外国や外国人を日本風に染め上げるモデル(これは第一路線ですが)では、ひょっとすると、相撲の方が標準的なのかもしれません。外国人がトップ層にはいってきても、ルールづくりは日本人がおさえる、そして日本がメッカであり続けるという意味においてです。

柔道のように、染め上げが成功してかえって主導権を外国人に握られるところはまだ出ていない気がします(しかし、近年、中国企業に買収されているところでは、ルールメークが外国人の手にうつるという意味での柔道化が意外にすすむのかもしれません)。

本稿の初めの方で、相撲と柔道について、相撲が柔道になっていく可能性はほとんどないだろうという形で、少し触れていたのですが、両者の差異はグローバル化という視点でみると意外に興味深いかもしれないと思い始めています。

「野球」にみる日本化モデル

野球のゲームに企業をなぞらえるとどうなるでしょうか。たとえば、米国生まれのベースボールを日本的な野球に化けさせつつ、それでいて、ベースボールの本場にも人を送り込めるような共通性は保っているところに着目します。これは、たとえば、買収などで手に入れた外国企業が行っている外資系的なやり方(含人事制度)を、そのエッセンスを残しつつ、しだいに日本化していくというモデルとして考えられるかもしれません。

そうなれば、日本のよいところは保ちつつも、海外との二制度の分離による弊は避けることができます。日本で野球をしている日本人人材が、日本人野球選手のように大リーガーにいってすぐに活躍することができる道も開けます。

他方、そういうふうにいったん日本化した野球が、今年からボールの弾性を大リーグにあわせるなどというグローバル化を志向しているところも、いったん日本化した外資系企業が最近グローバル化の動きを強めているところとパラレルにみえます。

少し視点をずらすと、ベースボール・野球は、マイルドな「一スポーツ・二制度」なのかもしれません。米国中心の大リーグと、日本中心のプロ野球は、別に後者が前者に従属する関係にはありません。ルールを制定するパワーでいえば、両者は互いに独立です。野球(ベースボール)発祥の地は米国だとしても、日本は完全なパワーをもっています。

両者の間のルールの差が、お互いの選手の行き来を妨げるほど大きくなければ、こういう関係が可能だという見本かもしれません(僕は、日本企業が外国企業を買収した後、一国二制度的になることを想定して、それとの比較でものをみて、この点に注意をひいています。企業買収の場合、両者の間のルールの差が、ベースボールと野球の場合よりも大きいことが多く、それが頭痛の種なのですが)。

サッカー的なキック

サッカーを通してみると何がみえるでしょうか?たとえば、Jリーグをつくったように、国内において正真正銘のグローバルプレイヤーたるサッカー選手をつくるための、組織を立ち上げるということがありえます。個別の企業のみに頼るグローバル化には限界があるのかもしれません。

その場合、Jリーグができてから、今のレベルになるまでにかかったのと同じくらいの時間が、企業内Jリーグが日本人のグローバルプレイヤーを生み出すまでにはかかるでしょう(そして、それでもまだ、欧州のトップチームでエースになるまでの人材はほとんどでていません)。

あるいはチームごと、欧州のトップリーグで戦えるようなところもまだ当分でそうにありません。

あるいは、まさにJリーグが行ったように、個別企業としてではなくて、企業Jリーグを作って、そこで日本人人材をサッカーのグローバルゲームで鍛える、外国人プレイヤーや外国人監督も適度にまぜつつ鍛える、そういう可能性もあるかもしれません(企業Jリーグというあやしげな比喩が何を意味するのかは一考に値するかもしれません。個人レベルでグローバル人材育成のための学校や協会のようなものをつくるのもありえますが、Jリーグを御手本とするのであれば個人ではなくて企業が加盟することになるのかと思います)。

いずれにしても、全体としてみれば、本気になる人と組織がでてくれば、日本人にとって不利にみえるサッカーのようなゲームでも(素人目には、足を使う球技ですから足の短い民族は不利にみえるし、身体接触も多い競技ですから小柄な民族は不利にみえます)、やればできる、そういう例としてとらえたいと思います。

サッカーだけがグローバル化のモデルではありませんが、サッカーですらここまできたということには勇気づけられます。その際、僕は、早い段階からさまざまな形で外国人とまざって自分たちを鍛えていったことに注目します。そういうことの中で、はじめて、自分たちの特徴がわかり、長所の使い方や短所のカバーの仕方もみえてくるのではないでしょうか。

ここまで、スポーツの代表として、相撲、柔道、野球、サッカーをとりあげてきましたが、これは、日本において比較的なじみの深いスポーツをとりあげた結果この4つになったわけです。また、相撲を除き、他の3つは今では男性でも女性でも参加できるという点も指摘しておきたいと思います。

ただ、イマジネーションを少しふくらませかけたついでにいえば、以上で言及したスポーツ以外にも、プロレスやK1といった、「新しい」スポーツを作ることも可能です。企業においても、外資をそのまままねるのでもなく、日本式を墨守するのでもなく、新しいルールを作ることも可能のはずです。

私は、そういう新しいルールによる新しい企業・人事ゲームを半ば遊びで考え始めています。できれば、この連載のどこかでそれをご紹介したいと思います(一応「グローバル・タレント・ゲーム(GTG)」という名称をつけています。私が重要だと考える3つのキーワードを単に並べただけの芸のない名称です)。

欧米でできた外資系ゲームをそのままグローバル式と認定し、欧米の軍門に下るようではわれわれは不利な立場におかれかねません。かといって、日本流だと外国人が乗ってきにくいので、そのあたりを考慮して、外資系に寄ってはいますが日本人に不利にならない新しいゲームをご提案できればと思っています。

その際、今その芽が見え始めた実例をみつつ、日本式と外国式のいいとこ取りをするハイブリッド方式と、両方式より一段上の視点から考えるメタ方式を、今のところ考えています。

スポーツで考える意味(1):ゲームの視点

さて、スポーツでグローバル経営を考えることの意味は、前回少しふれましたがここで改めてその点を論じてみます。

一つは、ゲームとして組織や制度をみるということに関係しています。最近の組織論で注目されるのは、ゲームの理論を使ったものであり、ゲームの理論という視点で見ると、まさにゲームを展開するスポーツの話と、企業組織や社会組織における諸活動をゲームとして読み解くところはストレートにつながるからです。

たとえば、正義論で著名な哲学者のRawlsはルールについて二つのコンセプトを区別しているのですが、その説明に野球の例を用いています。いわく、ルールにはプレイを始める前に決めるルール(the rules of a practice)とプレイがなされる中で経験的にできてくるルール(rules of thumb)があるといいます。

前者の例として、野球で審判から3ストライクと宣告されたらバッターはバッターボックスにとどまることはできない、というのをあげています。もし三振したあとも、もっと打っていいかという交渉の余地をみとめると所謂野球は成立しなくなります。

他方で、McMillanという学者は、後者の例(つまりrules of thumb)に相当するのですが、サッカーの例をあげています。

いわく、サッカーは元来、中世ヨーロッパで二つのグループがボール(当時のボールは豚の内臓に詰め物をしたものだったのですが)を相手側のフィールドに押し込むという相当荒々しいゲームだったようです。そこに参加するプレイヤーの数も厳密には定めておらず、どういうルールでゲームをするのかも、やりながら都度決めていたようです(子供のときの遊びで都度ゲームを適当に定めていた経験を思い出すとよいかと思われます)。

特に、審判がいたわけでもないようです。そこである村で行われるサッカーと隣の村ではルールが異なっていることもあったようです。しかし、数百年にわたり「サッカー」がプレイされている中で、庶民的な土着ルールが突然、公式のルールに置き換えられる、いわばトップダウン的に置き換えられるということが起きたようです。

こうした視点でみると、スポーツに限らず、企業も含めた社会におけるゲームのルールというものは、時間をかけて次第に(時に突然)できあがってきたものといえましょう。その間、競争もあり、まねもあり、選択もあり、変異もあったわけです。サッカーのルールが今の形をとるときには、トップダウン的な意図的なデザインもあったわけですが、その前史として、長い時間をかけて経験の積み重ねがあったことも無視できません。

スポーツにおける、こうしたルールの種類とその生成のプロセスは、グローバル経営においてどういうルールをどのように定めていくかということへの何がしかの示唆をもつものだと私は考えています。

スポーツで考える意味(2):組織の見える化

スポーツの事例を使うもう一つの理由は、スポーツだと組織の動きがみえやすいということがあります。企業組織については、内側でどう動いているかをみる機会は自社の組織に限られています。ある課やチームの内部の人以外には、どんな考えの人が本番のビジネスやマネジメントでどう動いているかみることはできません。

しかし、スポーツはそれがすべて白日のもとにさらされます。そして、驚くべきことに、ほとんどの組織の要素をスポーツは兼ね備えています(ゲーム理論的に読み解く時、この相似性はなかば人工的なものですが、それを忘れても、直観的に両者の間には相似性があるのではないでしょうか)。

人が構成する組織(チーム)、その中には現場のリーダーがいて、その上には監督もいます。さらには、株主に相当するスポンサーがいます。競合もいますし、顧客もいます。顧客もサポーターのような重要顧客・ビッグアカウントとその他の顧客に分かれています。そしてそのすべてがグローバル化しているわけです。

加えて、現代スポーツは体力を競うとともに知恵を競っていますから、ますます企業組織の動きに近似してきます。といっても、戦略だけではだめで、実行力が鍵をにぎること、これも両者に共通の事項です。僕が関心をもっているタレントマネジメントの面でも、両者の共通点をあげはじめれば、どっちがどっちかわからなくなるくらい似ていますが、それはまたの機会にしたいと思います(特に、グローバルに通用する人が育つ場合の条件について考えると両者は非常に接近してきます)。

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